ゲームと単行本・全集未所収

独立後の半年間で、アラカンは「鞍馬天狗」を2作演じている。1929年、「東亜京都」に移り、初演作『新説荒木又右衛門 前篇・後篇』で「荒木又右衛門」を演じる。同年、『右門一番手柄 南蛮幽霊』で「むっつり右門』役を初演。「東亜京都」での3年間で、アラカンは「鞍馬天狗」を2作、「むっつり右門」を4作演じている。

事実、当時の京都・大阪ではいわゆる「尊王攘夷・倒幕」の嵐が吹き荒れており、倒幕派志士による奉行所役人など幕吏の暗殺事件も多発していたことから、そうした志士による犯行説も捨て切れない。三河国挙母藩出身。嘉永3年に脱藩し、知恩院一心寺に入寺する。その後、文久3年5月までに壬生浪士組に入隊していることが明らかになっており、6月の新選組結成時には副長助勤に就任している。池田屋事件では近藤勇隊に所属し、奥沢栄助や新田革左衛門と共に池田屋裏庭の防御に当たったが、逃亡を図る尊皇攘夷志士の猛攻を喰らい、深手を負う。その負傷がもとで、同年7月22日に逝去。墓は壬生寺と聞名寺にある。後に会津藩から別段金20両を賜った。

1951年、鞍馬天狗の「杉作」役で共演した美空ひばりについて、「美空ひばりにはたまげた。まあいうたら子供の流行歌手ですよってな、多くは期待しませんでした。かわゆければよいと、ところがそんなもんやない。…男やない女の色気を出しよる。あの山田五十鈴に対抗しよる。」と感服し、女優としてのその才能を認めていた。1957年、千鳥が淵におけるロケが皇太子明仁親王。医者から高血圧の予防に「くるみの実を手の中で転がしておくように」と言われ、「どうせなら」と、パチンコ店に通い始めた。「趣味と実益と健康と、一石三鳥というわけだ。」と本人は嘯き、なかなかの腕前であった。だがマスコミにパチンコの趣味を暴露されてからは、店内で「先生どうぞ。」と、玉のサービスをしてもらったり、桂米朝の「NHKビッグショー」出演のギャラにパチンコ玉交換券を貰うなどの目にあい、寛寿郎は「有難迷惑や。」と苦笑していた。

水木しげるの漫画作品になぜかよく登場していて、タコに子供を生ませたり、鬼太郎とともに妖怪を退治したこともある。長唄三味線の杵屋勝東治と妻・八重子の長男として東京市深川区に生まれる。 勝新太郎は二歳下の弟。元妻は女優藤原礼子で、宝塚歌劇団卒業生で、のち大映映画で活躍した。その息子若山騎一郎も俳優。幼少の頃より弟・勝新太郎とともに長唄の修行を始めるが、なかなか専念せず柔道にのめり込んだ。

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