映像化作品とエッセイ・対談

元俳優で映画プロデューサーの三船史郎は本妻との、タレントの三船美佳は内縁の妻との間にできた子供。中華民国・山東省青島で貿易商、写真業を営む三船徳造の長男として生まれる。父は秋田県鳥海町出身。若い頃からワルだったと言う。その後大連に移り住み、大連中学卒業後、甲種合格で兵役につく。写真の経験・知識があるということから満洲国・公主嶺の陸軍第七航空教育隊に配属され航空写真を扱う司令部偵察機の偵察員となる。後年もカメラに対するこだわりは深かったという。その後滋賀県八日市の「中部九八部隊・第八航空教育隊」に写真工手として配属され、1943年に同部隊に現役入隊した鷺巣富雄とは、その後生涯にわたる交友関係となった。鷺巣は三船の写真技術の高さを認め、円谷英二、大石郁雄と並んでの映画界の師と仰いでいる。

隊内きっての美男剣士という評判が伝えられている。水戸藩卒。現在の常陸大宮市御前山村野口平、粕谷忠兵衛の子として生まれる。安政5年、孝明天皇から密かに下賜された戊午の密勅の返還に反対し、家督を長男の親之助に譲り、脱藩した。万延元年、粕谷を含む37名は、薩摩藩に尊王攘夷の実行を訴えたことを問われ、水戸藩江戸屋敷に幽閉処分に処された。

明治3年8月15日、獄死。享年37。弁天台場降伏時に詠まれた辞世の句が残る。戊辰戦争時、同藩士森常吉などと共に藩主・松平定敬を護衛して蝦夷地へ渡り、土方歳三配下の新選組に入隊して箱館戦争に参戦する。 なお、蝦夷地へ渡航するためには新選組隊士とならなければならなかった。

剛毅な性格であった寛寿郎は、この「寛プロ」解散に前後して新興キネマの身売り話が持ち上がったことにかこつけて、新興側の永田雅一が寛寿郎に対して「寛プロ」解散費用を全負担し、「八千円の給料」と言う破格の条件で入社をもちかけたところ、「従業員はほっといてお前だけ来い。」との永田の一言に激怒。永田と衝突した結果、寛寿郎は自社の従業員を新興に送り込んで、自身は半年ほど映画界から追放された。従姉妹の森光子は「おとなしいような顔をして、その実は大変な反逆児なんですね。永田雅一さんにさからうなんて、当時考えられないころです。それで一時にせよ映画スターをやめちゃったんですから、あの方は徹底してるんです。」と証言している。こうしたことで「寛プロ」解散後、しばらく寛寿郎は無聊を託っていた。元来新しい物好きで自家用車に凝っていたこともある寛寿郎は、二等飛行操縦士のライセンスを取り、ドイツ製のフォッカーを購入、自家用飛行機を持つまでに至った。このライセンスを生かし、遊覧飛行のアルバイトをしていたが、客から「アラカンや。ヒコーキ屋とはけしからん!」と騒がれ、「アホ!人違いや。せやけど、聞きずてならへん。アラカンやったらなんでアカンねん。金払ろてとっと去ね!」とやりかえし、後年、「役者やっとったらこうはいきまへん。稼ぎは別として、楽しい毎日やった。」と述懐していた。

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