映像化作品と歴史観

1868年3月、伊東らと共に新選組から分離し、御陵衛士に属す。三樹三郎や三木和泉と称する。同年11月、暗殺された伊東の遺体収容時、迎撃する新選組との乱闘を切り抜けて薩摩藩邸に保護される。鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩の中村半次郎の指揮下に入って新選組と戦い、後に東征軍の先鋒隊に合流する。のちに赤報隊の二番隊長を務めたが、相楽総三らの偽官軍事件に連座した疑惑によって入牢した後、新政府の徴兵七番隊に加わる。6月には軍務局軍曹を拝命して江戸へ下向し、戊辰戦争では北越や会津における戦線を戦った。1869年7月、弾正台少巡察。廃藩置県後、忠良と改名。伊那県や司法省、千葉県、山形県などにおいて、主に司法・警察関係に奉職し、1879年には鶴岡警察署長として行幸の指揮を執っている。1885年1月、福島県二等属を最後に退官した後は、茨城県石岡町にて余生を送った。1919年、老衰のため死去。享年83。墓所は石岡市の東耀寺。

表面的には長州藩の仕業として処理されたが、刺客は、土方歳三、山南敬助、沖田総司、原田左之助と言われている。新選組初期に、長州藩・桂小五郎の命で間者として入隊したとされる。若々しく目がぱっちりした色白下ぶくれの顔で、女のように優しい声をしていたと言われる。自称、京都浪人17歳。

文久三年頃に壬生浪士組に入隊し八月十八日の政変に参加。池田屋事件には不参加だった。 近藤勇に反発した永倉新八、原田左之助らとともに建白書を提出した。鳥羽・伏見の戦いで敗れ、江戸へ帰還し、土方歳三、島田魁、相馬主計らと箱館まで戦い降伏した。その後薬王院に収容された。明治25年2月28日に出身地の奈良県高取町で死亡。享年49。

慶応2年4月1日、京都東山の祇園社石段下にて「頓死」する。享年不明。墓所は、大阪市北区の本伝寺。武蔵国日野宿北原にて、八王子千人同心世話役の井上藤左衛門の三男として生まれる。兄・松五郎は千人同心。弘化4年頃、天然理心流の三代目宗家・近藤周助に入門。佐藤彦五郎が天然理心流の出稽古用に設けた道場で土方歳三らと共に稽古に励んだ。また源三郎は近藤勇の兄弟子でもあり、彼らとはこの頃親交を深めたとされる。万延元年、免許皆伝。

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