短編集ほかと主な出演

日大三中在学中は一年生を三回落第するほどの腕白だった。1949年、20歳のときに長唄の和歌山富十郎に弟子入りし、若山富三郎を名乗る。1954年、新東宝にスカウトされ、演技経験のない新人としては破格の高給と運転手付きの車の送迎を約束させ入社。翌年、映画『忍術児雷也』で映画デビュー、『人形佐七捕物帖』シリーズなどの時代劇に主演。1958年、TV時代劇『銭形平次』に主演。新東宝の経営が苦しくなると1959年に東映に移籍し、同様に『人形佐七捕物帖』シリーズで主演し、脇役も多数こなした。

1935年、 西町小学校を卒業した。担任の教師は進学を勧めたが、家庭の事情により奉公に出た。親戚の伝手によって最初株式現物取引所田崎商店に出るが、半年あまりでペンキ屋に奉公を変わり、さらにそこも退いて株式仲買店松島商店に入った。以後、1942年に国民勤労訓練所に入所するまで、同店で過ごした。チップや小遣い銭を元手に内緒の相場に手を出し月給を上回る収入を得ていた。兜町時代の正太郎はこれを「軍資金」として読書、映画、観劇にはげみ、登山や旅行を楽しみ、剣術道場にも足を運ぶ一方、諸方を食べ歩き、吉原で遊蕩にふけるなどした。特にこの時期、読書・映画への興味が深まったことはもとより、歌舞伎・新国劇・新劇などの舞台を盛んに見物し、歌舞伎への理解を深めるために長唄を習うまでした。1941年、太平洋戦争が開戦したが、その翌年には兜町を退職し、国民勤労訓練所に入所。同年のうちに芝浦・萱場製作所に配属され、ここで旋盤機械工としての技術を学んだ。所長の意向ではじめ経理を担当する予定であったものが、本人のたっての望みで現場担当となり、上司の丁寧な指導もあって数箇月のうちにこの技術に習熟した。このころには「婦人画報」の朗読文学欄にスケッチを投稿するなどした。そのうち「休日」で選外佳作、「兄の帰還」で入選、「駆足」で佳作入選、「雪」で選外佳作。「兄の帰還」で賞金50円を稼ぎ、これが正太郎にとってはじめての原稿収入となった。1943年の冬には岐阜太田の工場に転勤となり、当地で旋盤工の教育係を兼ねた。翌年元旦には名古屋の製鋼所に徴用されていた父と久しぶりに再会。休日には中部地方の山をめぐり、東京に足を伸ばして歌舞伎を見物したが、前年、成年に達した正太郎のもとにもついに召集令状がもたらされ、工場を退職。4月、横須賀海兵団に入団。間もなく武山海兵団内自動車講習所に入所。しかし、教官の暴力的な教えかたや物資横流しに反感を持ち、ことあるごとに反抗的な態度を取り、繰返し制裁を受け、同所を修了しないまま退所。磯子の八〇一空に転属となり、通信任務を担当。翌1945年3月10日には東京大空襲のため永住町の家が焼けた。その後、水兵長に進級し、鳥取・米子の美保航空基地に転属。同地で電話交換室の室長となった。戦況が悪化し、全国的に空襲の危機にさらされるなか、米子では比較的平穏な日々がつづき、この時期、正太郎は余暇に俳句や短歌を作ることに熱中した。8月15日、敗戦。二等兵曹に進級。残務処理を終えて8月24日に東京に戻る。

戦前から戦後にかけ、寛プロ、東亜京都、寛プロ、新興キネマ、日活、大映、フリー、新東宝、フリーと渡り歩いた。当たり役には「鞍馬天狗」と、「むっつり右門」、戦後は「鬼寅親分」などがある。独立後の半年間で、アラカンは「鞍馬天狗」を2作演じている。1929年、「東亜京都」に移り、初演作『新説荒木又右衛門 前篇・後篇』で「荒木又右衛門」を演じる。

慶応元年の江戸での隊士募集に応募して新選組に入隊。慶応3年3月に伊東甲子太郎らが脱退して御陵衛士を結成した際には、そのまま組に残留した。同年6月、新選組の幕臣取立てに反発し、御陵衛士に合流しようとするが新選組との規定により叶わなかった。その後、京都守護職邸で近藤勇らと脱隊の話し合いをするがこれも叶わず、茨木司、佐野七五三之助、中村五郎と共に同所で自刃した。

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