新選組時代とテレビドラマ

慶応元年の江戸での隊士募集に応募して新選組に入隊。慶応3年3月に伊東甲子太郎らが脱退して御陵衛士を結成した際には、そのまま組に残留した。同年6月、新選組の幕臣取立てに反発し、御陵衛士に合流しようとするが新選組との規定により叶わなかった。その後、京都守護職邸で近藤勇らと脱隊の話し合いをするがこれも叶わず、茨木司、佐野七五三之助、中村五郎と共に同所で自刃した。

戦後は弾正台や開拓使、北海道庁に出仕した。退官後は札幌で果樹園を経営し、リンゴ栽培などを営んだ。明治40年、東京にて死去。享年71。元治元年に新選組に入隊。戊辰戦争時には、鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦いに参戦し、白河口の戦いにおいて戦死したとされる。享年29。死亡日は閏4月25日説もあり。中島登が描いたなかでも、伊藤は白河で戦っているところを書かれたという。

『8時だョ!全員集合』に出演したことがあり、ぎっくり腰の状態で殺陣もやった。志村けんに「賞金稼ぎがぎっくり腰とはお笑いだ」とネタにされ、若山も「金貰ってるからやらねぇとしょうがねぇんだよ」とこぼし、笑いをとった。私生活では酒を嗜まず、大の甘党だったことで知られる。楽屋に大福やキャラメル、コーヒー牛乳などを欠かさず、夜中に後輩俳優を呼び出して汁粉を御馳走したこともあったという。東映の『トラック野郎』に出演した時は、主人公との喧嘩のシーンで、自分の腰に常備してある、サクマドロップを口に入れるところがあり、甘党を意識した粋な演出と思える。1992年4月2日、中村玉緒、勝新太郎、清川虹子と麻雀をしている最中に倒れ急性心不全のため死去、62歳没。兄想いだった弟の勝新太郎は、カメラの前でその遺骨を食べ、涙を流した。その勝も5年後の1997年6月21日、下喉頭ガンのため65歳で死去した。

1863年頃、新選組に加盟する。池田屋事件では土方隊に属し、報奨金20両を賜る。同年12月の編成では二番組に属する。大坂でのぜんざい屋事件では、兄三十郎や阿部十郎らとともに大利鼎吉を討った。大坂にあって屯所隊長を務めたが、主に別行動をとることが多く、在籍は確認されるものの、兄三十郎の死後に離脱したものと思われる。維新後も大坂で道場を経営した。西南戦争では、大阪府知事渡辺昇の推薦で一時は抜刀隊の長に擬せられた。のちに道場経営に失敗し、商家の用心棒をしながら余生を過ごした。のち、妻スエと離婚して愛人吉村たみと同棲。明治19年、食道ガンのため大阪にて死去。享年51。墓所は、大阪市北区の本伝寺。

戻る