ドキュメントと歴史観への批判

浅田次郎の歴史小説『壬生義士伝』は、子母澤の創作を下敷きにして書かれたものである。2002年にテレビ東京で長時間TVドラマとして放送され、翌2003年には映画化もされた。大石は御三卿一橋家の近習番衆 大石捨次郎の長男として生まれた。はじめは金之助と称していた。新撰組入隊後、暗殺を主とした任務につくことで「人斬り鍬次郎」と恐れられた。実際に多くの任務で、その剣を振るっていたらしい。目付役の任にもついていた。事情により生家を出奔した大石は、武州日野の大工のもとに住み込みで働いていた。この大工が、名主佐藤彦五郎に出入りしていた事で、大石は彦五郎の道場に通うようになる。剣術はここで上達したようだ。

1951年12月13日、東京都中野区鍋屋横丁の旧士族の家に生まれる。駒場東邦中学校、中央大学杉並高等学校を経て、自衛隊に入隊。この動機は、憧れていた三島由紀夫の自殺が原因である。この点について当初エッセイでは否定していたが、後に事実であると告白している。ちなみに、所属していたのは陸上自衛隊第32普通科連隊である。企業舎弟と呼ばれる暴力団の準構成員をしていたこともあり、ネズミ講などに関わっていたと浅田自身が認めている。また競馬で生活していた時期もあり、この方面に関するエッセイも多数ある。婦人服販売会社を営む傍ら、1990年に週刊テーミスに連載された『とられてたまるか!』でデビュー、1991年に学習研究社から単行本化される。ペンネームは、元々仁侠映画の主人公と同姓同名にしようとしたが、編集者から変更の要請があり、直前に変更。初めて新人賞の予選を通過した小説の主人公の名前を急遽使用することになったという。当初の作品傾向から悪漢小説を中心とした作家としての認知が先行したが、1992年、“将来この路線に埋もれることのないよう”に、“かけがえのない習作”として『プリズンホテル』を執筆。1995年に『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞を受賞した後は、清朝末期の宮廷を舞台に宦官を主人公として時代を活写した大作『蒼穹の昴』が1996年に直木賞の候補作となり、さらに翌年『鉄道員』にて直木賞を受賞するなど、作品の範囲は劇的な展開を見せている。

その後、黒澤作品には欠かせぬ存在となり『酔いどれ天使』から『赤ひげ』までの16年間で出演しなかった黒澤映画は『生きる』1作のみである。現代劇、時代劇問わぬ黒澤映画の顔であったが、黒澤との確執も伝えられた。三船の死後、黒澤は「会って、三船君、本当によくやったなあ、と褒めてあげたかった。あんな素晴らしい俳優はもういません」とコメントした。黒澤作品以外にも稲垣浩監督の『戦国無頼』、『宮本武蔵』、『無法松の一生』、岡本喜八監督の『侍』、『赤毛』、熊井啓監督の『千利休 本覺坊遺文』など数多くの作品に主演。初期のころは『七人の侍』の影響か豪放な役が多かったが、その後戦国武将や東郷平八郎・山本五十六といった軍人・偉人の役が多くなった。晩年は山田洋次監督『男はつらいよ 知床慕情』の頑固者の老獣医師や、市川崑監督の『竹取物語』の竹の造翁など、渋い演技を見せた。撮影に入る前に台詞・演技を全て体に覚えさせ、撮影に台本を持参しないことも多い、という高いプロ意識でも知られた。

松竹京都では、「鞍馬天狗」を3作演じた。以後、年に8本前後のペースで数多くの時代劇映画に主演、衰えぬ華麗な剣戟をみせる。1952年、『鞍馬天狗 一騎討ち』に主演。

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