短編集ほかと発行部数ランキング(単行本・文庫本の合計)

刺客が立ち去り、八木家の人々が様子を見に行くと部屋は血の海で平山の首は胴から離れていた。享年35。表面的には長州藩の仕業として処理されたが、刺客は、土方歳三、山南敬助、沖田総司、原田左之助と言われている。新選組初期に、長州藩・桂小五郎の命で間者として入隊したとされる。

1962年に弟が居る大映に移ってからは城健三朗と改名したが、主役は回ってこず、市川雷蔵や弟の勝新太郎の脇役に甘んじていた。仕事では不遇の日々であったが、1963年に美人女優の藤原礼子と結婚。また大映が売り出していた若手の主演スター安田道代を愛人にしていた。1964年にはTV時代劇『風雲児半次郎』に主演。 しかし大映時代の最後の1年は干されてしまい役がつかなかった。1966年に東映に戻り、芸名も元の若山富三郎に戻す。東映に復帰当初は脇役でスタートしたが、鶴田浩二を助演した『博奕打ち 総長賭博』で認められ、1968年より『極道』シリーズ、『賞金稼ぎ』シリーズ、『極悪坊主』シリーズ等のB面映画の主演シリーズを持つようになり、俳優としての地位を築く。70年代に入ってからの代表作は勝プロの『子連れ狼シリーズ』。 凄まじい殺陣と寡黙な演技で拝一刀を演じ、『一刀の若山か、若山の一刀か』と評された。また個人事務所「若山企画」を立ち上げ、TV時代劇では1973年の『唖侍鬼一法眼』、1975年の『賞金稼ぎ』に主演した。

海外での受賞やノミネート歴は、1955年『七人の侍』で英国アカデミー賞主演男優賞ノミネート。1961年『用心棒』でヴェネチア映画祭主演男優賞、シネマヌーヴァ金額賞。1965年『赤ひげ』でヴェネチア映画祭主演男優賞、1980年『将軍』で米国エミー賞主演男優賞ノミネート。その他、フランスの芸術文化勲章、モントリオール世界映画祭特別グランプリ、マニラ映画祭では「最もセクシーな俳優」に選ばれた事もある。三船は海外からの出演オファーも数え切れないほど多く、晩年においても一年で通常の段ボール箱が一杯になるほど依頼が殺到していた。三船の出演を決断させる要素は「日本人を茶化さない」、「三船プロの運営に支障をきたさない」、「制作サイドの誠意ある交渉」等があり、それらの条件をクリアした相手に対しては「出演させていただきます」というような誠意をもって応えた。ただし『デルス・ウザーラ』に関しては本人が自費で海外に渡航しスケジュールを調整していたと野上照代に話している。晩年は米映画『シャドウ・オブ・ウルフ』のエスキモー族長役や『ピクチャー・ブライド』の日本人弁士役としても出演した。

隊内きっての美男剣士という評判が伝えられている。水戸藩卒。現在の常陸大宮市御前山村野口平、粕谷忠兵衛の子として生まれる。安政5年、孝明天皇から密かに下賜された戊午の密勅の返還に反対し、家督を長男の親之助に譲り、脱藩した。万延元年、粕谷を含む37名は、薩摩藩に尊王攘夷の実行を訴えたことを問われ、水戸藩江戸屋敷に幽閉処分に処された。

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