映像化作品と短編集ほか

9月16日、島原の角屋で宴会をした芹沢、平山、平間重助は夜中に屯所の八木家に帰った。平山は玄関で倒れて起き上がれないほど泥酔していた。八木家には各々の愛人が待っており、平山は桔梗屋の芸妓吉栄とかねてから馴染で、奥の十畳間で吉栄と同衾して寝入った。同じ部屋では屏風を置いて芹沢とその愛妾のお梅が寝ていた。深夜、数人の男たちが突然部屋に押し入り、芹沢と平山に切りつけた。平山は起きる間もなく即死。芹沢は起き上がって逃れようとするが、倒れてめった斬りされて殺された。お梅も惨殺された。平山と同衾していた吉栄は難を逃れている。襲撃が行われた時にたまたま便所に行っていたという。別室にいた平間は逃亡。刺客が立ち去り、八木家の人々が様子を見に行くと部屋は血の海で平山の首は胴から離れていた。享年35。

慶応3年11月18日、近藤は妾宅にて伊東を歓待して酔わせ、帰途にあった油小路の本光寺門前にて同隊士の大石鍬次郎ら数名により暗殺した。伊東は「奸賊ばら」と叫んで絶命したと伝わる。享年33。酒に酔わせたうえでの暗殺を企んだのは、北辰一刀流の道場主であった伊東を警戒したためと思料される。伊東の遺体は路上に放置され、御陵衛士を誘い出す手段として使われた。収容に来た御陵衛士は待ち伏せていた新選組と戦闘となり、藤堂らが戦死する。墓は、京都市東山区の戒光寺。慶応4年3月13日、御陵衛士により京都市下京区の光縁寺から改葬された。元姫路藩士堀川福太郎の門人で神道無念流の免許皆伝。花火の事故で左目がつぶれて隻眼だった。目が潰れた左側から打ち込むと猛烈に切り返し、逆に見えるはずの右側からだとわりあいに隙があったという。安政6年に横浜戸塚の直心陰流萩原連之助の道場を訪ねた記録が残っている。

慶応3年11月の油小路事件では、大石が伊東甲子太郎を暗殺。 また12月の天満屋事件では乱闘の斬り合いの中、紀州藩士 三浦休太郎の護衛の任務を斎藤一らと共に果たしている。慶応4年1月鳥羽伏見の戦いに敗れ、大石も新選組の同志と江戸に撤退する。 近藤が甲陽鎮撫隊を組織すると、先触れとなって甲州に出張した。慶応4年3月に甲陽鎮撫隊が敗走すると、大石の消息もわからなくなった。その後、妻子らと江戸に潜伏していたが、12月頃、懇意だった元隊士・三井丑之助に騙され捕縛される。一説には、大石は生きるに困り、油小路で自分が殺した伊東甲子太郎の一派であった加納鷲雄を訪ね、官軍になっていた加納に仕官を懇願したが容れられずに捕縛されたとも言われるが、そのような証言の記録は無い。加納の同志である阿部十郎の証言とも矛盾する為、小説家・子母澤寛の創作である可能性が高い。

1919年、片岡松之助の一座に加入するが巡業先で賭博により追われ、初代中村扇雀一座の「関西青年歌舞伎」に加わる。ちなみに、のちの『続 網走番外地』での「鬼寅親分」のセリフには、「十五の年からいたずらをしてきた」というものがある。ここには、市川右一、片岡千恵蔵、林長丸など将来のライバルたちが所属していた。1921年、叔父・六代目嵐徳三郎の縁を頼って歌舞伎界に入る。初名嵐徳太郎。屋号は葉村屋。後に嵐和歌太夫を名乗る。

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