単行本・全集未所収とドキュメント

1949年、マキノ正博監督の『盤嶽江戸へ行く』が新東宝での初演作となる。同作は、マキノが設立したシネマ・アーチスト・コーポレーションの第2回作品で、主演は20年前の前作『盤嶽の一生』同様、大河内傳次郎であった。同年、『白髪鬼』、『私刑』等の現代劇に出演。これは戦後、GHQの「チャンバラ禁止令」によって剣戟映画の製作が禁止されたことによるもので、アラカンら剣戟スターは牙を抜かれたも同然だった。

かなりの偏食で、洋食は一切受けつかなかった。寛寿郎自身ナイフとフォークを使って肉を食べる習慣が野蛮なものと嫌悪し、味の面でも「ナマリブシみたいなん切らしたら死んでしまいます。トンカツぐらいでんな。西洋料理で口にあうのは。」と証言している。「寛寿郎プロ」解散直後、彼は本気でヨーロッパ行きを考えていたが、洋食嫌いの理由で断念した。1927年の『『鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子』から、1956年の『疾風!鞍馬天狗』までの実に30年の長きに渡り、アラカンは40本もの『鞍馬天狗』映画に主演している。新東宝では、黒覆面ではなく天狗の面を着けた「大天狗」という派生的なキャラクターもあった。1928年に寛寿郎が「マキノ御室撮影所」を退社した理由は、『角兵衛獅子功名帖』を「鞍馬天狗最終作」と会社側が勝手に決めてしまったことによる。「そらないやろと、逆ろうたワテは。これはおのれが作った役ですわな。捨てられやしまへん。」と寛寿郎は当時の心境を、後年語っている。

中島登が描いたなかでも、伊藤は白河で戦っているところを書かれたという。元治元年10月の江戸における隊士募集に応じて入隊。同年12月の行軍録では、尾形俊太郎の五番組に所属している。翌慶応元年夏の編成で撃剣師範となっている。慶応2年9月の三条制札事件に参戦。大石鍬次郎の組に所属していたと考えられ、褒賞金として千疋を賜っている。同3年6月の幕臣取立では、見廻組御雇の格を受けた。 その後も在隊し、翌4年に勃発した戊辰戦争に身を投じ、戦死した。享年26。

釈放後は相馬主計と行動を共にして旧幕府軍陸軍隊隊長春日左衛門の下に付く。奥羽越列藩同盟とともに常磐口で官軍と抗戦した。奥羽越列藩同盟壊滅後、仙台へ向かい、そのとき榎本武揚艦隊および土方歳三らと合流し、蝦夷地へ渡った。野村は新選組に復帰せず、陸軍隊の一隊を任されていたが、隊長春日の統率姿勢に不満を持ち、命令違反などのトラブルを起こす。蝦夷共和国成立後は、土方の直属である陸軍奉行添役に就任した。明治2年3月25日、宮古湾海戦の際、回天に乗船していた野村は、真っ先に甲鉄艦に斬り込んで行ったと言われている。野村はこのとき戦死した。撤退に間に合わずに甲鉄艦上で戦死したため、新政府軍により遺体は海に棄てられたと言う。享年26。函館称名寺の新選組供養碑にその名が刻まれている。元治元年、局長近藤勇による隊士募集に応じて新選組に入隊。

戻る