長編作品一覧とテレビドラマ

同年、『白髪鬼』、『私刑』等の現代劇に出演。これは戦後、GHQの「チャンバラ禁止令」によって剣戟映画の製作が禁止されたことによるもので、アラカンら剣戟スターは牙を抜かれたも同然だった。1950年、『鞍馬天狗 大江戸異変』公開。日本独立に伴い「チャンバラ禁止令」が解禁されるやいなやの見事な鞍馬天狗役への返り咲きだった。

1903年、京都市生まれ。文楽の人形遣い・初代桐竹紋十郎の孫。幼くして市内の襟問屋に奉公し、休みの日には尾上松之助の忍術映画、チャップリン、キートンの喜劇映画に夢中となる。のち、チャップリンの「キッド」が「鞍馬天狗」と杉作とのからみに、キートンの無表情さが「むっつり右門」の演技に、それぞれ大きな影響になったと述懐している。1919年、片岡松之助の一座に加入するが巡業先で賭博により追われ、初代中村扇雀一座の「関西青年歌舞伎」に加わる。ちなみに、のちの『続 網走番外地』での「鬼寅親分」のセリフには、「十五の年からいたずらをしてきた」というものがある。

1957年、『明治天皇と日露大戦争』で明治天皇を演じる。同作では、大蔵貢社長じきじきに「日本映画界初の天皇俳優にならんか」とこの役を持ちかけられ、寛寿郎は余りの大役に戸惑いつつも、御真影や説話のイメージ通りの威厳ある明治天皇を演じて話題となり、作品は空前の大ヒットを記録する。つづけて明治天皇役を演じたが、マンネリ化し、3作で降板。「天皇役は負担やった。」と後年述べている。『大東亜戦争と国際裁判』)では東條英機、『皇室と戦争とわが民族』)では神武天皇を演じる。

1954年、原作者の大佛次郎が自ら『鞍馬天狗』映画の製作に乗り出した。この際にアラカンに鞍馬天狗役を封印させたが、大佛の手掛けた、小堀明男を主演に据えた『鞍馬天狗』は結局、日本映画史に残るとまで言われる大失敗作に終わり、寛寿郎はあおりを食らって代理で2本出る羽目になっている。このときも「言うたら悪いが、生きてる天狗はわてがつくった。」と寛寿郎は、暗に大佛次郎を非難している。人物伝としてはこの奇骨の人物を愛した竹中労による『聞書 アラカン一代』がある。晩年のインタビューによると原作者の「天狗が人を斬りすぎる」という意見に対して、アラカンは「活動大写真」としての立場から同意していない。1927年、十一代目片岡仁左衛門が、稽古のとき、「踊りが下手だ」と有望な若手俳優の顔面を真剣で殴打した。その場に居合わせた寛寿郎は、「いくら才能があっても門閥如何では出世できないのか」と衝撃を受け、映画界入りを決意したという。なお、その時の殴られた俳優はのちの片岡千恵蔵であった。

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