司馬作品の時代性と新選組時代

独立後の半年間で、アラカンは「鞍馬天狗」を2作演じている。1929年、「東亜京都」に移り、初演作『新説荒木又右衛門 前篇・後篇』で「荒木又右衛門」を演じる。同年、『右門一番手柄 南蛮幽霊』で「むっつり右門』役を初演。「東亜京都」での3年間で、アラカンは「鞍馬天狗」を2作、「むっつり右門」を4作演じている。

日大三中在学中は一年生を三回落第するほどの腕白だった。1949年、20歳のときに長唄の和歌山富十郎に弟子入りし、若山富三郎を名乗る。1954年、新東宝にスカウトされ、演技経験のない新人としては破格の高給と運転手付きの車の送迎を約束させ入社。翌年、映画『忍術児雷也』で映画デビュー、『人形佐七捕物帖』シリーズなどの時代劇に主演。1958年、TV時代劇『銭形平次』に主演。新東宝の経営が苦しくなると1959年に東映に移籍し、同様に『人形佐七捕物帖』シリーズで主演し、脇役も多数こなした。

美男で女好きだったが気が弱く、仲間の隊士達と飲みに行くこともできず、壬生村郷士南部亀二郎の子守女と仲が良かった。女の腹がふくれはじめたため、他の隊士達が歌を作ってからかったと言う。馬詰親子はいづらくなって、ある夜新選組を脱走してしまった。父・新太郎は45、6歳で、号を柳元斎と称して書が上手い一方、刀の差し方などまるで知らず、隊士達によく使いっぱしりをさせられていたらしい。

『8時だョ!全員集合』に出演したことがあり、ぎっくり腰の状態で殺陣もやった。志村けんに「賞金稼ぎがぎっくり腰とはお笑いだ」とネタにされ、若山も「金貰ってるからやらねぇとしょうがねぇんだよ」とこぼし、笑いをとった。私生活では酒を嗜まず、大の甘党だったことで知られる。楽屋に大福やキャラメル、コーヒー牛乳などを欠かさず、夜中に後輩俳優を呼び出して汁粉を御馳走したこともあったという。東映の『トラック野郎』に出演した時は、主人公との喧嘩のシーンで、自分の腰に常備してある、サクマドロップを口に入れるところがあり、甘党を意識した粋な演出と思える。1992年4月2日、中村玉緒、勝新太郎、清川虹子と麻雀をしている最中に倒れ急性心不全のため死去、62歳没。兄想いだった弟の勝新太郎は、カメラの前でその遺骨を食べ、涙を流した。その勝も5年後の1997年6月21日、下喉頭ガンのため65歳で死去した。

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