歴代副長と短編集ほか

あまり賞に縁がなかった若山だが、この年『悪魔の手毬唄』と、『姿三四郎』の村井半助役で第20回ブルーリボン助演男優賞を受賞。1979年の『衝動殺人 息子よ』で、戦前からの大スター・高峰秀子と共演を果たし、キネマ旬報主演男優賞、ブルーリボン賞、毎日映画コンクール、日本アカデミー賞などの主演男優賞を受賞した。舞台では1977年の蜷川幸雄演出のミュージカル『三文オペラ』や1978年の『アニー』で、長唄で鍛えた美声を披露。同じく1978年の『歌舞伎模様・天保六花撰』で河内山宗俊に扮して第33回芸術祭大賞を受賞。豪放な性格と合わせ、時代劇や仁侠映画でもダイナミックな役を多く演じたため、『若山富三郎』と言うと豪胆な役しかできないイメージがあるが、現代劇では市井に生きる、言わば彼のイメージとは180度異なる一庶民を情感たっぷりに、なおかつ大御所俳優としてのオーラを打ち消しながら演じる事もできるという点で、若山は所謂『大御所俳優』と言った枠にはまらない実力の持ち主であったと言えよう。そうした俳優としての実力が、多くの後輩俳優達を引きつけた魅力だったとも言える。

「小説の大衆食堂」を自称、「書くのは最大の道楽」と語り、作家生活14年以上、70冊を越える著書を書き上げた今日も執筆活動への意欲を見せている。現代小説では「平成の泣かせ屋」の異名を持ち、人情味あふれる作風に特徴がある。自らの祖先は武士であったといい、『壬生義士伝』などの新撰組を材に求めた作品のほか、人間の不変さを描いたという『お腹召しませ』などの作品がある。東京人であることにこだわっているが、ダイナミックな変化により町名の変更など過去を振り捨てて発展する東京のあり方には疑問を持っている。昔の町名や区画が今も残る新宿区が好きだといい、「角筈にて」など小説の舞台になることも多い。暴力団・窃盗犯などのアウトローに対し、ユーモアやペーソスを交えながら、肯定的に描くことが多い。

1988年、第6回川喜多賞を受賞。1997年、12月24日に全機能不全のため77歳にて死去。晩年は軽度の認知症を発症していたといわれ、週刊誌やワイドショー等の話題となっていた。遺作は1995年の『深い河』だった。1951年に『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、クロサワとともにミフネの名も世界に知れ渡った。1961年に初の海外作品『価値ある男』ではメキシコ人役で主演。その後の海外の名優との競演は、以下の作品などが挙げられる。

志願して壬生浪士組に参加し、筆頭局長の芹沢鴨に取り入りひたすらゴマをする一方、下の身分の人間には威張りちらし、周囲をあきれさせる。 しかし彼自身は武士への憧れが人一倍強く、出世に努力を惜しまないかたわらで、影では立派な刀を購入する為の貯金をしていた。ところがその蓄えが実ろうかという頃合になって、その卑屈な態度を逆に疎ましがった芹沢鴨に手打ちにされてしまった。阿波の出身。大阪とも。文久三年六月以降に新選組に入隊。八月十八日の政変に参加したが池田屋事件には不参加。慶応元年七月までの在隊が確認されている。このときに松原忠司とともに柔術師範となる。

戻る