短編集ほかと発行部数ランキング(単行本・文庫本の合計)

元姫路藩士堀川福太郎の門人で神道無念流の免許皆伝。花火の事故で左目がつぶれて隻眼だった。目が潰れた左側から打ち込むと猛烈に切り返し、逆に見えるはずの右側からだとわりあいに隙があったという。安政6年に横浜戸塚の直心陰流萩原連之助の道場を訪ねた記録が残っている。文久3年2月 清河八郎献策の浪士組に参加。芹沢鴨の六番組に配属され上京。清河の画策によって浪士組が江戸へ帰還すると、芹沢、近藤勇らとともに京都に残留。残留浪士たちは京都守護職会津藩御預りとなり壬生浪士組を結成。平山は幹部の副長助勤となった。壬生浪士組は芹沢鴨、新見錦ら水戸派と近藤勇、土方歳三らの試衛館派に分かれ、平山は水戸派に属し芹沢と行動を共にする。5月に壬生浪士組が会津藩主松平容保に拝謁した際に平山は土方、藤堂平助らと剣術の稽古を披露している。

慶応4年1月に鳥羽・伏見の戦い、3月に甲州勝沼の戦いと転戦。いずれも最前線で戦った。近藤が流山で新政府軍に投降したあと、江戸に残った土方歳三らといったん別れ、隊士たちの一部を率いて会津へ向かった。一方、このとき斎藤は負傷して戦列を離れており流山にはいなかったという説もある。こちらの説では、隊士を率いて会津に向かったのは粂部正親または安富才助とされている。土方は同年4月の宇都宮城の戦いに参加、足を負傷して戦列を離れ、田島を経由して若松城下にたどり着き、斎藤らと合流した。斎藤をはじめとする新選組は会津藩の指揮下に入り、閏4月5日には白河口の戦いに参加、8月21日の母成峠の戦いにも参加した。敗戦により鶴ヶ城下に撤退。土方と合流したのはこの撤退の最中、猪苗代でのことだった。その後、土方らは庄内に向かい、大鳥圭介ら旧幕臣の部隊は仙台に転戦したが、斎藤は会津に残留し、会津藩士とともに城外で新政府軍への抵抗を続けた。9月22日に会津藩が降伏したあとも斎藤は戦い続け、容保が派遣した使者の説得を受け入れてやっと新政府軍に投降した。降伏後は捕虜となった会津藩士とともに、はじめは旧会津藩領の塩川、のち越後高田で謹慎生活を送った。会津藩は降伏後改易され、松平家は家名断絶となったが、明治2年11月3日に再興を許された。知行高は陸奥国内で3万石とされ、藩地は猪苗代か下北かを松平家側で選ぶこととされた。東京で捕虜となっていた山川浩ら旧藩幹部は、高田で謹慎していた藩士らに諮ることなく下北を選択。藩名は新たに斗南藩と命名された。斎藤も斗南藩士として下北半島へ赴く。

河合は切腹を免れるために親元に足りなくなった資金を借り入れるために使いを出したが、たまたま実家で騒動が起きていて資金を送るのが遅れてしまい、結果資金は河合切腹直後に届けられたという説がある。河合の切腹を聞いた親は大変怒り、新選組が立てた墓とは別に息子を供養するための立派な墓を壬生寺に建てた。備中松山藩士・谷三治郎供行の長男として備中松山に生まれる。幼少期より父三治郎から武術を学ぶ。嘉永6年1月、家督相続。藩主板倉勝静の近習役として仕えたが、安政3年10月13日、不祥事案により谷家は断絶となる。断絶後、弟万太郎と共に故郷を出奔し、大坂南堀江町にて道場を開く。

1968年、『神々の深き欲望』に出演。この作品の撮影環境はかなり苛酷なもので、アラカンは耐え切れず何度も現場放棄をしたという逸話を残している。この時期から、テレビドラマにも時折ゲストなどで出演、それらのいずれも脇役ながら俳優としての圧倒的な存在感は健在であった。1972年、テレビ番組『変身忍者嵐』で百地三太夫を演じる。

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