助監督作品と浪人時代

1948年には習作を手にはじめて長谷川伸を訪問。翌年より本格的に劇作を師事し、門下の批評会「二十六日会」にも参加した。この前後の習作に『牡丹軒』『手』『蛾』など。『手』は新国劇での上演が検討された。1950年、片岡豊子と結婚し、借家して所帯を持ったが、間もなく申しこんでいた住宅抽選に当選し、新国劇で上演された『鈍牛』の上演料などで新居を建てた。以後、新国劇の座付作者といわれるほどにこの劇団と関係を深めた正太郎は、辰巳柳太郎・島田正吾らに『檻の中』、『渡辺華山』などを提供する一方で、長谷川のつよい勧めによって小説でも、新鷹会の雑誌「大衆文芸」に『厨房にて』などの作品を発表した。1955年1月、劇作における代表作のひとつ『名寄岩』が上演され、みずから演出をも行った。これによりようやく文筆によって立つ自信を得て都職員を退職。翌年には『牧野富太郎』、井上靖原作『風林火山』、『黒雲谷』、『賊将』など、新国劇で作品をつぎつぎと上演する一方、「大衆文芸」誌に定期的に小説を寄せつづけた。初期には現代ものの作品が多かったが、1956年11月・12月号に分載した『恩田木工』によって、歴史小説・時代小説を執筆活動の中心に据えるようになった。『恩田木工』は翌年、56年下期の直木賞候補となるものの落選。以降劇作と平行して着実に小説の執筆をつづけ、1959年9月には処女作品集『信濃大名記』を光書房から上梓する。この間『眼』、『信濃大名記』、『応仁の乱』、『秘図』で計5回直木賞候補となるも、選考委員であった海音寺潮五郎の酷評もあり受賞には至らなかった。私生活では1958年暮れ、出征直前に名古屋で会って以来音信不通になっていた父が正太郎のもとを尋ね、久々の再会を果たした。正太郎は母とともに同居することを勧めたが、聞き入れられることはなかった。1960年、「オール讀物」6月号に発表した『錯乱』によって直木賞を受賞した。長谷川はわがことのように喜び、正太郎も年少のころからの愛読者であった大佛次郎から賞を手渡された。受賞後数年のうちに『清水一角』『加賀騒動』などの脚本を書くほか、『北海の男』、『鬼坊主の女』、『卜伝最後の旅』、『色』、『火消しの殿』、『人斬り半次郎』、『あばた又十郎』、『さむらいの巣』、『幕末新撰組』、『幕末遊撃隊』など初期の代表作となる小説を次々と発表し、このうち『色』は『維新の篝火』の題名で映画化された。一方で劇作家としては1963年に新国劇のために子母沢寛原作『おとこ鷹』の脚色を行ったのち、しばらく演劇界・新国劇との関係を断ち、小説に専念するようになった。新国劇のありかたへの疑問や正太郎の一徹さからくる周囲との齟齬が原因であった。同年6月11日、長谷川伸が没したが、同時にこれを契機として二十六日会・新鷹会などを脱会。以後はいかなる団体にも属さず執筆をつづけた。

同年、『右門一番手柄 南蛮幽霊』で「むっつり右門』役を初演。「東亜京都」での3年間で、アラカンは「鞍馬天狗」を2作、「むっつり右門」を4作演じている。1931年、「東亜京都」がジリ貧となり、『都一番風流男』から再び「寛プロ」での独立制作に戻る。この年から7年後の解散まで、アラカンは「鞍馬天狗」を10作、「むっつり右門」を14作、「銭形平次」を3作演じている。

弁天台場降伏時に詠まれた辞世の句が残る。戊辰戦争時、同藩士森常吉などと共に藩主・松平定敬を護衛して蝦夷地へ渡り、土方歳三配下の新選組に入隊して箱館戦争に参戦する。 なお、蝦夷地へ渡航するためには新選組隊士とならなければならなかった。敗戦後、警視庁に務めて明治政府に出仕。西南戦争の際には、藤田五郎らと同じく警視局の部隊に所属して奮戦した。その後、三重県尾鷲警察署の巡査に就任し、退職後も商社などの警備員を引き受けていた。背に髑髏の刺繍が施された陣羽織を着ていたらしい。

慶応4年1月に鳥羽・伏見の戦い、3月に甲州勝沼の戦いと転戦。いずれも最前線で戦った。近藤が流山で新政府軍に投降したあと、江戸に残った土方歳三らといったん別れ、隊士たちの一部を率いて会津へ向かった。一方、このとき斎藤は負傷して戦列を離れており流山にはいなかったという説もある。こちらの説では、隊士を率いて会津に向かったのは粂部正親または安富才助とされている。土方は同年4月の宇都宮城の戦いに参加、足を負傷して戦列を離れ、田島を経由して若松城下にたどり着き、斎藤らと合流した。斎藤をはじめとする新選組は会津藩の指揮下に入り、閏4月5日には白河口の戦いに参加、8月21日の母成峠の戦いにも参加した。敗戦により鶴ヶ城下に撤退。土方と合流したのはこの撤退の最中、猪苗代でのことだった。その後、土方らは庄内に向かい、大鳥圭介ら旧幕臣の部隊は仙台に転戦したが、斎藤は会津に残留し、会津藩士とともに城外で新政府軍への抵抗を続けた。9月22日に会津藩が降伏したあとも斎藤は戦い続け、容保が派遣した使者の説得を受け入れてやっと新政府軍に投降した。降伏後は捕虜となった会津藩士とともに、はじめは旧会津藩領の塩川、のち越後高田で謹慎生活を送った。会津藩は降伏後改易され、松平家は家名断絶となったが、明治2年11月3日に再興を許された。知行高は陸奥国内で3万石とされ、藩地は猪苗代か下北かを松平家側で選ぶこととされた。東京で捕虜となっていた山川浩ら旧藩幹部は、高田で謹慎していた藩士らに諮ることなく下北を選択。藩名は新たに斗南藩と命名された。斎藤も斗南藩士として下北半島へ赴く。

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