映像化作品と作品リスト

敗戦後、警視庁に務めて明治政府に出仕。西南戦争の際には、藤田五郎らと同じく警視局の部隊に所属して奮戦した。その後、三重県尾鷲警察署の巡査に就任し、退職後も商社などの警備員を引き受けていた。背に髑髏の刺繍が施された陣羽織を着ていたらしい。酒好きで、酔っぱらうと箱館戦争のことをよく話した。最後には必ず「土方歳三は本当にええ男やった」としみじみ語ったと言う。明治42年、桑名市の自宅で死去。享年71。

1950年、東宝第一期ニューフェイスで同期だった女優・吉峰幸子と結婚。その後、女優・喜多川美佳との交際が発覚して幸子夫人と別居。実態は家庭内暴力に悩まされた幸子夫人により、三船が追い出された形だったが、本心は三船の改心を望んでいたという。しかし、三船側より離婚訴訟が起こされるに及んで、家庭内の振る舞いが暴露されることになり、そのイメージが大きく低下した。この間、内縁関係にあった喜多川との間にもうけた娘が三船美佳であるが、美佳とかなり年が離れているため、親子というよりはむしろ孫と祖父に見られる事も多かったと言う。不倫相手の名前である「美佳」を子供にそのまま付けるという皮肉な結果となった。1992年に心筋梗塞で倒れたのをきっかけに、三船は正妻のもとに戻った。1961年、初の海外主演作品となるメキシコ人監督イスマエル・ロドリゲスによる『価値ある男』にメキシコ人役で主演。この映画は、主人公のメキシコ人を日本人が演じるという奇抜なアイデアであるにもかかわらず、1962年のアカデミー賞に外国語映画部門でオスカー賞にノミネート、1961年に『用心棒』と併せてブルーリボン賞で主演男優賞を受賞、1962年のゴールデングローブ賞に外国語映画部門でシルバーグローブを受賞、同じく1962年のサンフランシスコ国際映画祭でベスト・フィルム部門でゴールデン・ゲート・アワードを受賞するなどの結果を出し、以後国際俳優としての才能を発揮し始める。1962年、三船プロダクションを設立し、翌年には映画『五十万人の遺産』を自らの主演で初監督。映画『黒部の太陽』のほか、『桃太郎侍』『荒野の素浪人』『大忠臣蔵』などテレビドラマを制作した。1979年に内紛で分裂し、その後は振るわなかった。

元治元年、天狗党の乱に参加。上州での献金活動に奔走するが、栃木宿で幕府軍の追討を受け、下野国持宝寺で自害した。享年44。墓碑は生家に建てられている。対馬藩出身。千葉周作の次男、千葉栄次郎の門に入り、北辰一刀流を修めた。 1863年2月、江戸で浪士隊に加わり上京。殿内義雄・家里次郎の一派となる。浪士隊江戸帰還決定後、近藤勇、芹沢鴨らと共に京都に残留。壬生浪士組、結成時24名の一人となる。隊に在籍中は近藤らと共に行動。1863年4月6日に死去。殺害、病死とも。死亡日は3月25日説もある。

戊辰戦争時、回天隊隊士として各地を転戦後、蝦夷地へ渡る。明治2年1月、箱館で土方歳三配下の新選組に入隊。箱館戦争における箱館総攻撃により、新政府軍上陸地寒川で戦死。享年30。1923年1月25日、東京市浅草区聖天町に生れる。父・富治郎は日本橋の錦糸問屋に勤める通い番頭、母・鈴は浅草の錺職今井教三の長女で、正太郎は長男であった。この年、関東大震災が起こり、両親とともに埼玉県浦和に引越し、6歳まで同地で過ごす。やがて、両親は東京に転居。正太郎は根岸小学校に入学する。商売の思わしくなかった富治郎は近親の出資によって下谷上根岸で撞球場を開業するも、両親不和のためこの年に離婚した。

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