監督作品とテレビドラマ

若山富三郎が清川虹子と結婚するという偽の招待状を送られた安岡力也のエピソード。力也は御祝儀をいくら出すか悩んで周囲に相談し、一般常識レベルの金額を出す事に決定。当日、出席者の山城新伍や松方弘樹ら御祝儀の金額が次々と読み上げられ、それらがすべて100万円といった桁違いに高い金額で、力也の前に名前を読み上げられた高岡健二の御祝儀の金額のあまりの低さに若山富三郎が驚愕し、彼が怒鳴り上げられて締め上げられる様を見せられて力也が震え上がるというネタがあった。この“どっきり”は力也も裏を知っている完全なヤラセと言われている。あるとき東映の若山の楽屋の隣から工事の音がし始めた。若山の取りまきが聞いてきた話では、高倉健が自分の楽屋が狭いため、拡張工事をしていると言う。 それを聞き激怒した若山は「そっちがそんな勝手するなら俺だって」と、音のする壁と反対側の壁を自ら叩き始め楽屋を広くしようとした。 若山に壁を叩かれた隣の部屋では大川橋蔵が弁当を食べていたが、びっくり仰天して飛び出してきた。 橋蔵が「いったい、何やってるんですか?」と尋ねると若山は「壁壊して部屋広くするんや」と。 それを聞いた橋蔵が呆れ気味に「それはいいですけど、僕の部屋はどうなるんですか?」と尋ねると、若山は正気に戻ったのか「あ、すんまへん」と謝った。 さらにそこに通りかかって話を聞いた鶴田浩二も激怒し、同じく自分の楽屋を広くするため壁を叩き始めたと言う。弟である勝新太郎とは容姿がそっくりであり、借金が得意で親分肌で取り巻きを大勢連れたがる所も良く似ていた。そのため、大映時代には、「二人も勝新太郎は要らない」「愚兄賢弟」などと、揶揄されるほどであった。しかし、大酒飲みで遅刻が多く台本をあまり読んでこない勝と違い、若山は酔っ払うこと無く、撮影前の準備を怠らない。後に東映でスターダムにのし上がり、NHKのドラマ『事件』では、人権派の菊池弁護士役を好演するなど、若山は名実ともに名優としての評価を高めた。勝の不祥事が目立つようになり、評価は逆転する。事実、勝は、「演出やプロデュースでは自分が上だが、演技力は、兄に敵わない」と最高の賛辞を送っている。 中尾彬曰く、「兄は努力家、弟は天才」。

大映時代は『海峡の風雲児』)、『河童大将』)等が代表作とされる。大映京都での7年間では、アラカンは「鞍馬天狗」役は1本に留まった。このころから、一座を組み中国大陸の慰問活動を熱心に行う。1948年、大映京都で『狙われた女』に出演した後、フリーとなる。

文久3年9月以前に、父・馬詰新太郎と共に新選組に入隊。同年9月18日に新選組隊士達が島原へ遊興しに行った際には、屯所で留守番をしていた。芹沢鴨暗殺の日だった。美男で女好きだったが気が弱く、仲間の隊士達と飲みに行くこともできず、壬生村郷士南部亀二郎の子守女と仲が良かった。女の腹がふくれはじめたため、他の隊士達が歌を作ってからかったと言う。

斎藤は、斗南藩領の五戸に移住し、篠田やそと最初の結婚をした。篠田家は「諸士系譜」からも確認される名家で、会津藩士としては大身に属する。白虎隊士中二番隊に属し、飯盛山で自刃した篠田儀三郎とは遠縁にあたる。のち、容保の上仲人、佐川官兵衛と倉沢平治右衛門の下仲人で高木時尾と結婚した。時尾とのあいだには、長男・勉、次男・剛、三男・龍雄の3人の息子が生まれた。その後東京に移住。新たに募集された警視官に応募し、採用された。明治10年2月には警視局の警部補に任ぜられる。同年2月15日、西南戦争が勃発。豊後口警視徴募隊に抜刀隊として参加し、同年5月に戦闘参加。抜刀斬り込みの際、銃撃戦で負傷するがその天才的な剣技と指揮力で、薩摩兵を圧倒。大砲2門を奪取するなど、当時の新聞に報道されるほどの活躍をしている。明治24年、警視庁を退職し、その後は東京高等師範学校などに守衛として勤務した。大正4年9月28日、胃潰瘍のため死去。床の間に座ったまま往生を遂げたと伝えられる。享年72。墓は福島県会津若松市の阿弥陀寺にある。

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