短編集ほかと浪人時代

戊辰戦争時、回天隊隊士として各地を転戦後、蝦夷地へ渡る。明治2年1月、箱館で土方歳三配下の新選組に入隊。箱館戦争における箱館総攻撃により、新政府軍上陸地寒川で戦死。享年30。1923年1月25日、東京市浅草区聖天町に生れる。父・富治郎は日本橋の錦糸問屋に勤める通い番頭、母・鈴は浅草の錺職今井教三の長女で、正太郎は長男であった。この年、関東大震災が起こり、両親とともに埼玉県浦和に引越し、6歳まで同地で過ごす。やがて、両親は東京に転居。正太郎は根岸小学校に入学する。商売の思わしくなかった富治郎は近親の出資によって下谷上根岸で撞球場を開業するも、両親不和のためこの年に離婚した。

1925年、独立した市川右太衛門の後釜として片岡千恵蔵とともに「マキノ・プロダクション」に迎えられる。このとき、牧野省三から嵐長三郎の名を与えられた。1927年、「マキノ御室撮影所」製作の『鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子』でデビュー。以降マキノの看板スターとして、この年、実に20本近い数の映画に出演、「鞍馬天狗シリーズ」のほか『鳴門秘帖』・『百万両秘聞』などでもヒットを飛ばす。マキノでの2年間で、アラカンは「鞍馬天狗」を3作演じている。

2003年9月19日、急性心不全のため64歳で死去。ヴェネツィア国際映画祭 男優賞を2度受賞し、「世界のクロサワ」の黒澤明と共に「世界のミフネ」と呼ばれた。米映画『グラン・プリ』、70mm『太平洋の地獄 Hell in the Pacific』、仏映画『レッド・サン』など海外作品出演も多数。稼ぎも歴代の日本のスターの中で別格であり、経営する三船プロダクションは東京世田谷区に大手の映画会社に次ぐ規模のスタジオを所有し、大勢のスタッフを常時雇用していた。元俳優で映画プロデューサーの三船史郎は本妻との、タレントの三船美佳は内縁の妻との間にできた子供。

自らの祖先は武士であったといい、『壬生義士伝』などの新撰組を材に求めた作品のほか、人間の不変さを描いたという『お腹召しませ』などの作品がある。東京人であることにこだわっているが、ダイナミックな変化により町名の変更など過去を振り捨てて発展する東京のあり方には疑問を持っている。昔の町名や区画が今も残る新宿区が好きだといい、「角筈にて」など小説の舞台になることも多い。暴力団・窃盗犯などのアウトローに対し、ユーモアやペーソスを交えながら、肯定的に描くことが多い。自ら認めるヘビースモーカーであり、エッセイ「勇気凛凛ルリの色」のシリーズにて、「喫煙権について」などの稿で、喫煙者の立場から喫煙の権利を訴えている。また前述の競馬以外にもギャンブル全般が趣味で、『オー・マイ・ガアッ!』といった小説や、『カッシーノ!』などのエッセイがある。

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