テレビドラマと固めの杯

1943年の冬には岐阜太田の工場に転勤となり、当地で旋盤工の教育係を兼ねた。翌年元旦には名古屋の製鋼所に徴用されていた父と久しぶりに再会。休日には中部地方の山をめぐり、東京に足を伸ばして歌舞伎を見物したが、前年、成年に達した正太郎のもとにもついに召集令状がもたらされ、工場を退職。4月、横須賀海兵団に入団。間もなく武山海兵団内自動車講習所に入所。しかし、教官の暴力的な教えかたや物資横流しに反感を持ち、ことあるごとに反抗的な態度を取り、繰返し制裁を受け、同所を修了しないまま退所。磯子の八〇一空に転属となり、通信任務を担当。翌1945年3月10日には東京大空襲のため永住町の家が焼けた。その後、水兵長に進級し、鳥取・米子の美保航空基地に転属。同地で電話交換室の室長となった。戦況が悪化し、全国的に空襲の危機にさらされるなか、米子では比較的平穏な日々がつづき、この時期、正太郎は余暇に俳句や短歌を作ることに熱中した。8月15日、敗戦。二等兵曹に進級。残務処理を終えて8月24日に東京に戻る。敗戦直後の1945年には10月の帝国劇場で六代目尾上菊五郎の『銀座復興』を見物した。1946年、東京都職員となり下谷区役所に勤務したが、仕事は学生アルバイトとともに各所にDDTを撒布してまわることだった。すでに空襲によって家を失っていたうえに、借家の家主が疎開先から帰ってきたため、役所内に寝泊りして作業に没頭する一方、この年に創設された読売新聞演劇文化賞に向けて、戯曲「雪晴れ」を執筆。同作品は入選第四位となり、新協劇団で上演された。その後も区役所勤務をつづけながら、翌年「南風の吹く窓」で同賞佳作入選を果たした。1948年には習作を手にはじめて長谷川伸を訪問。翌年より本格的に劇作を師事し、門下の批評会「二十六日会」にも参加した。この前後の習作に『牡丹軒』『手』『蛾』など。『手』は新国劇での上演が検討された。1950年、片岡豊子と結婚し、借家して所帯を持ったが、間もなく申しこんでいた住宅抽選に当選し、新国劇で上演された『鈍牛』の上演料などで新居を建てた。以後、新国劇の座付作者といわれるほどにこの劇団と関係を深めた正太郎は、辰巳柳太郎・島田正吾らに『檻の中』、『渡辺華山』などを提供する一方で、長谷川のつよい勧めによって小説でも、新鷹会の雑誌「大衆文芸」に『厨房にて』などの作品を発表した。

日大三中在学中は一年生を三回落第するほどの腕白だった。1949年、20歳のときに長唄の和歌山富十郎に弟子入りし、若山富三郎を名乗る。1954年、新東宝にスカウトされ、演技経験のない新人としては破格の高給と運転手付きの車の送迎を約束させ入社。翌年、映画『忍術児雷也』で映画デビュー、『人形佐七捕物帖』シリーズなどの時代劇に主演。1958年、TV時代劇『銭形平次』に主演。新東宝の経営が苦しくなると1959年に東映に移籍し、同様に『人形佐七捕物帖』シリーズで主演し、脇役も多数こなした。

八木為三郎は「井上はその頃四十歳くらいで、ひどく無口な、それでいて非常に人の良い人でした」という旨の発言をしており、実際に若い隊士からの人望も厚かったという。一方で頑固な面もあり、一度言い出すとテコでも動かないところがあった。また、壬生で子供たちと遊んでいた沖田総司が通りがかりの源三郎に「また稽古ですか、熱心ですね」と声をかけると、「わかっているなら稽古をしたら良いのに」とたしなめたというエピソードが残っている。文久3年3月10日、芹沢鴨・近藤勇ら13名が新選組の前身、壬生浪士組を結成。藩主松平容保が京都守護職を務めていた会津藩の預かりとなる。同日、斎藤を含めた11人が入隊した。試衛館以来の近藤の同志で、近藤と一緒に上洛したという説もあるが、少なくとも、斎藤の上洛は近藤とは別行動だった。もっとも、近藤とともに上洛した者たちにしても、統一行動をとっていたわけではない。

盛岡藩の下級武士の次男として生まれる。学問、剣術に打ち込み盛岡藩内では新当流の門を叩き、頭角をあらわす。文久3年に江戸行きが叶い、北辰一刀流の玄武館に入門。この頃の道場は国事を語る場でもあり、吉村は尊皇攘夷の思想に傾倒していったようだ。慶応元年、脱藩。貧しかった吉村は五人の家族を憂い、当時、天下に勇名を馳せていた新選組に入隊。文武両道の才を買われ、諸士取扱役兼監察・撃剣師範に抜擢される。

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