映像化作品と歴史観への批判

鬼寅は、ロケ地の網走刑務所でも見物していた囚人たちから「アラカン!頑張れ!」と声援が飛び、寛寿郎を感激させたほどの気の入った役であった。『直撃地獄拳 大逆転』、監督は『網走番外地』と同じ石井輝男)でも、ラストの網走刑務所のシーンの締めのためにわざわざ寛寿郎に鬼寅役で1シーン登場させるほど、当時の鬼寅役は知名度の高いものだった。1968年、『神々の深き欲望』に出演。この作品の撮影環境はかなり苛酷なもので、アラカンは耐え切れず何度も現場放棄をしたという逸話を残している。この時期から、テレビドラマにも時折ゲストなどで出演、それらのいずれも脇役ながら俳優としての圧倒的な存在感は健在であった。

文久3年2月23日、将軍徳川家茂上洛のさい、その前衛として八郎は盟主として浪士組を率いて京都へ出発。京都に到着した夜、八郎は浪士を壬生の新徳寺に集め本当の目的は将軍警護でなく、尊王攘夷の先鋒にあると述べる。これに反対したのが、近藤勇、土方歳三、芹沢鴨らであったとなり、後に新選組へと発展してゆく)。200名の手勢を得た八郎は翌日、朝廷に建白書の受納を願い出て幸運にも受理された。このような浪士組の動静に不安を抱いた幕府は浪士組を江戸へ呼び戻す。八郎は江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、京都で完全に幕府と対立していたため狙われていた。文久3年4月13日幕府の刺客、佐々木只三郎、窪田泉太郎など6名によって麻布一ノ橋で討たれ首を切られた。享年34。『女士道』によると首は石坂周造がとりもどし、山岡英子が保管し遺族に渡したという。八郎死後、幕府は浪士組を新徴組と改名し庄内藩預かりとした。

備中松山藩士・谷三治郎供行の二男として備中松山に生まれる。幼少期より父三治郎から武術を学ぶ。安政3年10月頃、不祥事案により谷家は断絶となる。断絶後は、兄三十郎と共に故郷を出奔する。公卿中山家の侍医・岩田肥後之丞文碩の食客となり、その娘スエを娶り、大坂南堀江町にて道場を開く。1863年頃、新選組に加盟する。池田屋事件では土方隊に属し、報奨金20両を賜る。同年12月の編成では二番組に属する。大坂でのぜんざい屋事件では、兄三十郎や阿部十郎らとともに大利鼎吉を討った。大坂にあって屯所隊長を務めたが、主に別行動をとることが多く、在籍は確認されるものの、兄三十郎の死後に離脱したものと思われる。

1929年、子母沢寛の取材を受け、回顧録「新選組聞書」を口述。1938年1月16日、90歳で死去。その死をもって、新選組隊士は全員が鬼籍に入った。墓は東京都港区麻布台の真浄寺。1837年、常陸志筑藩士・鈴木専右衛門忠明の二男として志筑に生まれる。のちに藩から追放された父忠明は、高浜村にて私塾を主宰したが、忠明死後は代わって私塾を経営した。のち、同藩士・寺内増右衛門の養嗣子となって寺内多聞と称し、藩の山林取締役兼御朱印番に就いたものの、飲酒など素行不良のために離縁される。その後、三木荒次郎を称す。

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