浪人時代とゲーム

文久2年に放免され、翌文久3年、浪士組に参加する。同年3月、浪士組の江戸東帰が決まると、近藤勇、芹沢鴨らとともに京に残留したが、その後脱退し、郷里に戻った。元治元年、天狗党の乱に参加。上州での献金活動に奔走するが、栃木宿で幕府軍の追討を受け、下野国持宝寺で自害した。享年44。墓碑は生家に建てられている。対馬藩出身。千葉周作の次男、千葉栄次郎の門に入り、北辰一刀流を修めた。 1863年2月、江戸で浪士隊に加わり上京。殿内義雄・家里次郎の一派となる。浪士隊江戸帰還決定後、近藤勇、芹沢鴨らと共に京都に残留。壬生浪士組、結成時24名の一人となる。隊に在籍中は近藤らと共に行動。

ちなみに当時のテレビの価格では三万円では頭金にしかならず、かといって他の役者達は金を出さなかったので、電器屋が菅原文太のところへ代金を請求に行ったところ、「取れるもんなら、取ってみいぃ!!」と菅原に凄まれて泣く泣く帰る羽目になり、結局電器屋は丸損となったそうである。酒豪の弟勝と違い、若山が大の甘党で酒は下戸であることを知らない高倉健が、日頃のお礼の意味で、撮影前の若山に日本酒を一瓶贈った。若山は困りながらも高倉の思いに応えようと、快く受け取ってそのまま高倉の眼前でラッパ飲みして見せた。当然若山はそのままぶっ倒れ、当日の撮影は中止。高倉はひたすら平身低頭していたという。日本で最も殺陣の技術に優れた俳優の1人と言われ、特に『魔界転生』での殺陣は鬼気迫るものがある。同映画で若山と迫力ある殺陣を共演した千葉真一は、再び若山と殺陣共演を望み、影の軍団IIIの第1話にゲスト出演してもらえるよう、千葉自らが直接、若山に出演の依頼をした。弟の勝新太郎も「殺陣はお兄ちゃんにはかなわない」と語っている。

慶応2年9月の三条制札事件に参戦。大石鍬次郎の組に所属していたと考えられ、褒賞金として千疋を賜っている。同3年6月の幕臣取立では、見廻組御雇の格を受けた。 その後も在隊し、翌4年に勃発した戊辰戦争に身を投じ、戦死した。享年26。池田の最期には諸説ある。慶応四年一月三日に勃発した鳥羽伏見の戦いに参戦。五日に淀で戦死したと伝えられるものの、御香宮神社の東軍戦死者名簿には「正月三日、伏見に於て戦死」とある。しかし、横倉甚五郎は、存命して江戸に帰還した後、同年三月六日の甲州勝沼の戦いに参戦。手負いの後、甲州板戸で死亡したとしている。戦死したのは間違いないが、最期の場所は判っていない。佐伯の謎の解明は、当時の関係資料や、当時の関係者の証言の少なさから、不可能に近い。

同年、大映移籍第一作『鞍馬天狗』公開。同作で伊藤監督は、寛寿郎に百メートル疾走する立ち回りを要求し、出来あがった映画で裾さばきが乱れていないことに感心し、「あれもほんとうのわざおぎです。」と評している。悲壮美あふれる阪東妻三郎、躍動感の大河内傳次郎の殺陣に比べ、嵐寛寿郎の殺陣は華麗そのものであった。幼い時より仕込まれた歌舞伎舞踊の要素が物を言った見事な立ち回りであった。

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