評伝・作品評論(文献の一部)とエッセイ・対談

元治元年10月、同門の藤堂平助の仲介で新選組に加盟。同年11月、弟の鈴木三樹三郎、盟友の篠原泰之進や加納鷲雄、服部武雄、門人の内海二郎や中西昇らと上洛。このとき、上洛の年に因んで伊東甲子太郎と称する。参謀兼文学師範に任じられる。容姿端麗で巧みな弁舌から、伊東に対する人望が高かったと伝わる。しかし、伊東と新選組は攘夷という点で結ばれていたが、新選組は佐幕派で、勤王を説こうとする方針をめぐり、密かに矛盾が生じていた。西国を遊説した後の慶応3年3月20日、薩摩藩の動向探索と御陵警備任務の拝命の名目に新選組を離脱し、篠原や鈴木など同志14名と共に御陵衛士を結成する。しかし、新選組内で失脚しつつあった武田観柳斎らの御陵衛士加盟の要望は拒絶している。このころ、伊東摂津と称する。慶応3年11月18日、近藤は妾宅にて伊東を歓待して酔わせ、帰途にあった油小路の本光寺門前にて同隊士の大石鍬次郎ら数名により暗殺した。伊東は「奸賊ばら」と叫んで絶命したと伝わる。享年33。酒に酔わせたうえでの暗殺を企んだのは、北辰一刀流の道場主であった伊東を警戒したためと思料される。伊東の遺体は路上に放置され、御陵衛士を誘い出す手段として使われた。収容に来た御陵衛士は待ち伏せていた新選組と戦闘となり、藤堂らが戦死する。

河合が粛清され死亡したことだけは動かぬ事実であり、そこに至るまでの背景は現在のところ判明していない。2004年のNHK大河ドラマ「新選組!」では五番組長の武田観柳斎に軍学の書物を買うための金を無断で貸したことが原因となったという設定となっている。河合は切腹を免れるために親元に足りなくなった資金を借り入れるために使いを出したが、たまたま実家で騒動が起きていて資金を送るのが遅れてしまい、結果資金は河合切腹直後に届けられたという説がある。河合の切腹を聞いた親は大変怒り、新選組が立てた墓とは別に息子を供養するための立派な墓を壬生寺に建てた。備中松山藩士・谷三治郎供行の長男として備中松山に生まれる。幼少期より父三治郎から武術を学ぶ。嘉永6年1月、家督相続。藩主板倉勝静の近習役として仕えたが、安政3年10月13日、不祥事案により谷家は断絶となる。

墓は、京都市東山区の戒光寺。慶応4年3月13日、御陵衛士により京都市下京区の光縁寺から改葬された。元姫路藩士堀川福太郎の門人で神道無念流の免許皆伝。花火の事故で左目がつぶれて隻眼だった。目が潰れた左側から打ち込むと猛烈に切り返し、逆に見えるはずの右側からだとわりあいに隙があったという。安政6年に横浜戸塚の直心陰流萩原連之助の道場を訪ねた記録が残っている。文久3年2月 清河八郎献策の浪士組に参加。芹沢鴨の六番組に配属され上京。清河の画策によって浪士組が江戸へ帰還すると、芹沢、近藤勇らとともに京都に残留。残留浪士たちは京都守護職会津藩御預りとなり壬生浪士組を結成。平山は幹部の副長助勤となった。壬生浪士組は芹沢鴨、新見錦ら水戸派と近藤勇、土方歳三らの試衛館派に分かれ、平山は水戸派に属し芹沢と行動を共にする。

弟は俳優の河原崎次郎、河原崎建三。東京都立武蔵高等学校卒業。早稲田大学中退。妻の伊藤榮子とは「おしどり夫婦」として知られ、伊藤は河原崎を「長さん」と呼び深い愛情を寄せていた。日本の優しい父親像を好演し、40代から50代にかけてホームドラマ全盛期にとってかけがえのない存在となる。糖尿病の持病があり、一時病状が小康を得た頃、昼のドラマ『花の咲く家』にて、昼ドラとしては例外的に主役を務めた。1990年代後半から持病の糖尿病から脳血管障害を煩い、療養生活を送る。

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