TVドラマと新選組時代

その光景を八木家次男・為三郎が目撃していたと言う。能吏であり経済官僚としての実績が大きいが、新撰組に暗殺されたと伝わる最期の為に評価のポイントがずれている。内山彦次郎は大阪町奉行与力を代々務めた家系の7代目に当たる。与力としての内山は、他の経済官僚と同じく物価統制に携わっており町奉行へ提出した報告書なども残されている。中でも彼は「政府による市場介入」の積極論者であったという説がある。

病弱で江戸に帰れない、という消極的な理由により浪士組に参加。ある夜、廊下で咳き込んでいたところ、浪士組の一人殿内義雄が佐々木只三郎の一派と接触しているところを小窓から目撃し、近藤勇に通報。それが元で殿内は暗殺される。この始末をめぐり壬生浪士組は分裂し、土方歳三は始末の前面に近藤を立たせたて近藤を苦しめたことを悔やみ、以降憎まれ役を買うことを決意する。結果として阿比留の通報は、壬生浪士組の方向性と土方の生き様を間接的に決定づけるものとなった。結局は大津の親戚を頼ると言って、近藤らに見送られて浪士組を離脱。その死までは描かれていない。入隊時期は不明だが、慶応4年3月、五兵衛新田に屯集した新選組に野村の名前を見出すことが出来る。翌4月、下総流山で新選組局長近藤勇が新政府軍へ出頭する際、付き添って共に新政府軍に捕縛された。その後、同月25日に近藤は処刑され、野村も一緒に処刑されるはずだったが、近藤の助命嘆願により、同じく捕らえられていた相馬と共に釈放された。

1864年10月、旧知である藤堂平助の隊士募集の求めに応じ、伊東や篠原泰之進らと共に上洛する。のち、正式に新選組に加盟する。このころ、三木三郎と称す。目付を務めた後、1865年に九番隊組長。1868年3月、伊東らと共に新選組から分離し、御陵衛士に属す。三樹三郎や三木和泉と称する。同年11月、暗殺された伊東の遺体収容時、迎撃する新選組との乱闘を切り抜けて薩摩藩邸に保護される。鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩の中村半次郎の指揮下に入って新選組と戦い、後に東征軍の先鋒隊に合流する。のちに赤報隊の二番隊長を務めたが、相楽総三らの偽官軍事件に連座した疑惑によって入牢した後、新政府の徴兵七番隊に加わる。6月には軍務局軍曹を拝命して江戸へ下向し、戊辰戦争では北越や会津における戦線を戦った。1869年7月、弾正台少巡察。廃藩置県後、忠良と改名。伊那県や司法省、千葉県、山形県などにおいて、主に司法・警察関係に奉職し、1879年には鶴岡警察署長として行幸の指揮を執っている。1885年1月、福島県二等属を最後に退官した後は、茨城県石岡町にて余生を送った。

池田屋事件の際に果敢に働き、不逞浪士取締り活動の報奨金17両を江戸幕府より拝領した。また、局長近藤勇の家臣ではないとして、近藤の非行・増長を5箇条に纏めた建白書を隊長の永倉新八、原田左之助、斉藤一、伍長の島田魁、葛山、諸士調役の尾関雅次郎らが綴り会津藩に提出。その後、容保の取り計らいにより近藤との和解となったが、葛山は切腹をした。葛山が、最後まで頑強に抗議したための憤死とも、反発への見せしめのために3人の軽輩者の内、年長者で従順な島田や、尾関ではなく、血の気の多く首脳陣に怖じない葛山に責任を負わせて手打ちにしたともいわれている。天保8年、出羽国由利郡羽広村の百姓・阿部多郎兵衛の次男として生まれる。大坂の谷万太郎の下で剣術を学び文久3年、壬生浪士組に加盟。谷と共に大坂ぜんざい屋事件などに活躍した。元治元年に一度脱退し、慶応元年に復帰したとされる。新選組では伍長・砲術師範などを勤めたが、慶応3年3月に分離して伊東甲子太郎ら12名と共に御陵衛士を結成する。油小路の変時は外出中で難を逃れ、後に事件を知らされたため薩摩藩邸に逃げ込んだ。復讐の機会を窺っていた御陵衛士残党と共に、伏見墨染で近藤勇を襲撃して負傷させる。戊辰戦争では薩摩藩の中村半次郎に属し、鳥羽伏見の戦いなどに参加。後に赤報隊に加わる。

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