明治以降と関連作品

8月下旬に四条堀川の米屋に鉄砲を持った強盗が押し入り、永倉、斎藤、平山、山野八十八ら5人が出動。相手は鉄砲を撃ちかけてきたが抜刀してこれを討ち取り、この際に平山は負傷している。9月に芹沢が思いのままにならない芸妓小寅に腹を立て遊郭の吉田屋に乗り込む騒ぎが起きた。永倉、斎藤、土方、平山が同行して主人を脅しつけ、小寅と付添の芸妓お鹿を断髪する辱めを与えた。この際に芹沢の命令で土方が小寅の、平山がお鹿の髪を切っている。その頃、会津藩から近藤、土方、山南らに芹沢の処理の密命が下っていた。芹沢の乱暴狼藉に対し朝廷から召捕りの命令が下ったことが理由である。

慶応3年6月10日の幕府召抱えでは、平同士として名を連ねるものの、同年の12月までに脱走した。以後、消息不明。1864年12月迄の京坂における隊士募集に応じ、入隊。同年12月の編成では、伊東甲子太郎の二番組に所属。行軍録には蟻通勘吾と鈴木三樹三郎の間に名を連ねる。1867年6月10日の幕府召抱えでは、平同士として名を連ねている。 翌年1月4日、鳥羽・伏見の戦いの際、伏見にて戦死。御香宮神社の名簿に名あり。元治元年10月、近藤勇の江戸での隊士募集に応じて上洛。慶応2年2月に一橋家家臣原口某と名乗り勝手に金策をした。人相書を用意した松本喜次郎や近藤芳助など4人の隊士に追われ出雲の宿で役人に捕まり屯所へ戻され、大勢の隊士の前で切腹した。享年28。

河合が粛清され死亡したことだけは動かぬ事実であり、そこに至るまでの背景は現在のところ判明していない。2004年のNHK大河ドラマ「新選組!」では五番組長の武田観柳斎に軍学の書物を買うための金を無断で貸したことが原因となったという設定となっている。河合は切腹を免れるために親元に足りなくなった資金を借り入れるために使いを出したが、たまたま実家で騒動が起きていて資金を送るのが遅れてしまい、結果資金は河合切腹直後に届けられたという説がある。河合の切腹を聞いた親は大変怒り、新選組が立てた墓とは別に息子を供養するための立派な墓を壬生寺に建てた。備中松山藩士・谷三治郎供行の長男として備中松山に生まれる。幼少期より父三治郎から武術を学ぶ。嘉永6年1月、家督相続。藩主板倉勝静の近習役として仕えたが、安政3年10月13日、不祥事案により谷家は断絶となる。

1868年の鳥羽伏見の戦い後に江戸へ帰還する。甲陽鎮撫隊には歩兵頭として従軍するが、甲州勝沼の戦いで負傷して再度江戸へ帰還する。同年2月の脇差購入の記録を最後に消息が不明となり、その後、隊を脱したと思料される。離隊後は、彰義隊に関わったとされる。一説によれば、維新後に京都の原田左之助未亡人を訪問し、原田の最期と戒名を伝えたとされる。新撰組には初期の加入。八月十八日の政変、池田屋事件にも参戦した。

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