歴史観への批判と評伝・作品評論(文献の一部)

日本で最も殺陣の技術に優れた俳優の1人と言われ、特に『魔界転生』での殺陣は鬼気迫るものがある。同映画で若山と迫力ある殺陣を共演した千葉真一は、再び若山と殺陣共演を望み、影の軍団IIIの第1話にゲスト出演してもらえるよう、千葉自らが直接、若山に出演の依頼をした。弟の勝新太郎も「殺陣はお兄ちゃんにはかなわない」と語っている。新東宝の先輩であり、殺陣の見事さで知られる嵐寛寿郎は竹中労のインタビューにこたえて「若手で上手かったのは一に萬屋錦之介、二に若山で以下は無い」としている。が、東映城の若様だった錦之介に比べ低予算の新東宝やニュー東映で活躍の場を与えられた若山はある意味では運のなさも否めない。東映の殺陣師上野隆三は「殺陣が特に巧い人は誰かというなら、若山富三郎さんだ。あの人は何を持たせても巧い。武芸百般というけれども、刀、槍、薙刀、棒術などいろんなのがあるが、若山さんは何をやってもできる人だったね」と語っている。

鳥羽・伏見の戦いで敗れ、江戸へ帰還し、土方歳三、島田魁、相馬主計らと箱館まで戦い降伏した。その後薬王院に収容された。明治25年2月28日に出身地の奈良県高取町で死亡。享年49。播磨高砂の人で、実家は富裕な蔵元。新選組には、大阪で商家に嫁いでいた妹が推薦。得意の算術を活かし、勘定方として、隊費の経理面で活躍。

また、「新十郎」という名は戸部新左衛門政直の息子の名であり、戸部の父が祖先の名にあやかって命名したそうである。春陽堂などで二百編に及ぶ作品を発表したが、上述の通り「戸部新十郎」の本名で活動を始めたときに、「妖説五三ノ桐」以外は残す価値がないとして、「妖説五三ノ桐」以外の作品の原稿を全てを廃棄した。なお、戸部の死後、「多岐流太郎」時代の作品「忍法新撰組」を掲載した雑誌の切り抜きが戸部の書斎より発見され、光文社文庫より発行された。

1972年、テレビ番組『変身忍者嵐』で百地三太夫を演じる。当時は『仮面ライダー』に始まる爆発的な「変身ブーム」のさなかであり、「変身ヒーローの元祖が変身番組に出演」として、アラカンの登場は大変な話題となった。1977年、『男はつらいよ 寅次郎と殿様』に出演。「殿様」と呼ばれる風格溢れる老人を演じ、往年のファンを大いに喜ばせた。

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