主な出演とゲーム

1863年4月6日に死去。殺害、病死とも。死亡日は3月25日説もある。地味な隊士でありドラマ等ではあまり登場しないが、NHKの大河ドラマ・『新選組!』に登場。病弱で江戸に帰れない、という消極的な理由により浪士組に参加。ある夜、廊下で咳き込んでいたところ、浪士組の一人殿内義雄が佐々木只三郎の一派と接触しているところを小窓から目撃し、近藤勇に通報。それが元で殿内は暗殺される。この始末をめぐり壬生浪士組は分裂し、土方歳三は始末の前面に近藤を立たせたて近藤を苦しめたことを悔やみ、以降憎まれ役を買うことを決意する。結果として阿比留の通報は、壬生浪士組の方向性と土方の生き様を間接的に決定づけるものとなった。

元治元年、局長近藤勇による隊士募集に応じて新選組に入隊。慶応3年11月の油小路の変では大石鍬次郎らと共に出動。慶応4年1月に戊辰戦争が勃発すると、鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、会津戦争を経て仙台で榎本武揚艦隊と合流し、蝦夷地へ渡航した。

1963年、東映東京で『昭和侠客伝』に出演、以後、東映の任侠・ヤクザ路線映画、また松竹、日活などのヤクザ・ギャング映画にも多数出演することとなる。同年、『十三人の刺客』で片岡千恵蔵と共演。同作は「集団抗争劇」を描き、傑作の呼び声も高い。1965年、『網走番外地』で「八人殺しの鬼寅」を演じ、同シリーズを通しての当たり役となる。

陸奥国の会津藩領内に会津藩士・佐々木源八の三男として生まれる。親戚であった旗本佐々木矢太夫の養子となる。神道精武流を学び「小太刀日本一」と称され、幕府講武所の剣術師範を勤めたと伝えられる。京都守護職の会津藩主・松平容保に従う兄・勝任を動かし、清河八郎の策を容れ、文久2年、浪士組結成に伴い京都へ上る。只三郎は決裂した清河に抗し、京都残留を決めた近藤勇らを京都守護職の支配下に置くように取り計らった。文久3年には江戸へ戻り、麻布で窪田泉太郎などと共に浪士組の清河八郎を暗殺する。元治元年には京都見廻組を率い、新選組と共に尊攘派志士から恐れられ、蛤御門の変にも出動。元見廻組隊士今井信郎の証言から、慶応3年の京都近江屋での土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎を暗殺したとされる。

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