テレビドラマと演じた俳優・声優

結局は大津の親戚を頼ると言って、近藤らに見送られて浪士組を離脱。その死までは描かれていない。入隊時期は不明だが、慶応4年3月、五兵衛新田に屯集した新選組に野村の名前を見出すことが出来る。翌4月、下総流山で新選組局長近藤勇が新政府軍へ出頭する際、付き添って共に新政府軍に捕縛された。その後、同月25日に近藤は処刑され、野村も一緒に処刑されるはずだったが、近藤の助命嘆願により、同じく捕らえられていた相馬と共に釈放された。釈放後は相馬主計と行動を共にして旧幕府軍陸軍隊隊長春日左衛門の下に付く。奥羽越列藩同盟とともに常磐口で官軍と抗戦した。奥羽越列藩同盟壊滅後、仙台へ向かい、そのとき榎本武揚艦隊および土方歳三らと合流し、蝦夷地へ渡った。野村は新選組に復帰せず、陸軍隊の一隊を任されていたが、隊長春日の統率姿勢に不満を持ち、命令違反などのトラブルを起こす。蝦夷共和国成立後は、土方の直属である陸軍奉行添役に就任した。

その後東京に移住。新たに募集された警視官に応募し、採用された。明治10年2月には警視局の警部補に任ぜられる。同年2月15日、西南戦争が勃発。豊後口警視徴募隊に抜刀隊として参加し、同年5月に戦闘参加。抜刀斬り込みの際、銃撃戦で負傷するがその天才的な剣技と指揮力で、薩摩兵を圧倒。大砲2門を奪取するなど、当時の新聞に報道されるほどの活躍をしている。明治24年、警視庁を退職し、その後は東京高等師範学校などに守衛として勤務した。大正4年9月28日、胃潰瘍のため死去。床の間に座ったまま往生を遂げたと伝えられる。享年72。墓は福島県会津若松市の阿弥陀寺にある。剣の流派は一刀流とも無外流とも伝えられているが、確実なことは不明である。特技の「左片手一本突き」から、斎藤は左利きだったという説もあるが、史実である可能性は低い。後世、小説家などの創作のなかで左利きとされているものもあるが、中島登の残した絵図の描写では、右利きの者と同じ位置で刀を構えている。沖田総司や永倉新八と並んで、新選組最強の剣士の一人といわれている。永倉は弟子に「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と語ったという。

刺客が立ち去り、八木家の人々が様子を見に行くと部屋は血の海で平山の首は胴から離れていた。享年35。表面的には長州藩の仕業として処理されたが、刺客は、土方歳三、山南敬助、沖田総司、原田左之助と言われている。新選組初期に、長州藩・桂小五郎の命で間者として入隊したとされる。

同作では、大蔵貢社長じきじきに「日本映画界初の天皇俳優にならんか」とこの役を持ちかけられ、寛寿郎は余りの大役に戸惑いつつも、御真影や説話のイメージ通りの威厳ある明治天皇を演じて話題となり、作品は空前の大ヒットを記録する。つづけて明治天皇役を演じたが、マンネリ化し、3作で降板。「天皇役は負担やった。」と後年述べている。『大東亜戦争と国際裁判』)では東條英機、『皇室と戦争とわが民族』)では神武天皇を演じる。新東宝では数少ないスター俳優のひとりであり、歴史上の大人物を演じることが多かった。アラカンは綜芸プロ・新東宝では「鞍馬天狗」を3作、「むっつり右門」を6作演じている。

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