ゲームと来歴・人物

1980年、10月21日逝去。77歳。私生活では結婚と離婚とを繰り返したが、別れるたびに前妻に全財産と家屋敷を譲り渡していた。金銭面には無頓着で、生涯遊べるだけの金を稼ぎながら、財産はほとんど残さなかった。一つには、前述したように離婚のたびに全財産を譲り渡していたこともさることながら、もう一つは面倒見のよさからだった。戦死した「寛寿郎プロ」時代のスタッフの仏前へ、自費で一軒ずつ全国を回って香典をそなえたりと、スタッフへの物心双方の援助も惜しまなかった。

6月3日、不逞浪士取り締まりのため芹沢、近藤、山南敬助、沖田総司、永倉新八、斎藤一、野口健司、井上源三郎、島田魁そして平山の10人が大坂へ下った。淀川で舟遊びをしていると斎藤が腹痛を起こしたため船を下りて新地の遊郭へ向かった。途中、力士が無礼を働いたため殴り倒した。浪士たちが遊郭へ登ると力士の仲間たちが駆けつけ乱闘となった。力士たちは樫の棒で打ちかかってきたが、浪士たちはこれを撃退し、力士に多数の死傷者が出た。浪士に死者はなかったが、平山が胸を打たれて負傷した。8月12日、芹沢は生糸問屋大和屋を焼き討ちする乱暴を働いた。八月十八日の政変に壬生浪士組は出動し、この機会に新選組の名を与えられた。

文久3年の入隊とされる。野口健司の葬儀の際に、武田観柳斎とともに頼越人を務める。子母澤寛著『新選組物語』には、男色家の武田観柳斎に惚れられて迷惑し、副長土方歳三に訴えて脱退させてもらったとの話が残るが、子母澤の創作だと言う声もある。同書によれば、隊務が無い時はおしゃれな恰好をして出かけ、笑うと両頬にえくぼができ、笑う時も怒る時もまるで若い女のようだったらしい。明治20年頃に壬生を訪れた時も若々しく、27、8歳にしか見えなかったと言う。

元治元年に新選組に入隊。戊辰戦争時には、鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦いに参戦し、白河口の戦いにおいて戦死したとされる。享年29。死亡日は閏4月25日説もあり。中島登が描いたなかでも、伊藤は白河で戦っているところを書かれたという。元治元年10月の江戸における隊士募集に応じて入隊。同年12月の行軍録では、尾形俊太郎の五番組に所属している。翌慶応元年夏の編成で撃剣師範となっている。

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