発行部数ランキング(単行本・文庫本の合計)と単行本・全集未所収

1927年、十一代目片岡仁左衛門が、稽古のとき、「踊りが下手だ」と有望な若手俳優の顔面を真剣で殴打した。その場に居合わせた寛寿郎は、「いくら才能があっても門閥如何では出世できないのか」と衝撃を受け、映画界入りを決意したという。なお、その時の殴られた俳優はのちの片岡千恵蔵であった。1931年、アメリカの活劇俳優のダグラス・フェアバンクスが来日の折、滞在先の京都ホテルで寛寿郎は英語のスピーチをし、「わてが映画俳優として最初に英語で挨拶したんだす。」と後年まで自慢していた。なお、そのときの言葉は「ウェルカム・ダゴラス!」のみであった。1951年、鞍馬天狗の「杉作」役で共演した美空ひばりについて、「美空ひばりにはたまげた。まあいうたら子供の流行歌手ですよってな、多くは期待しませんでした。かわゆければよいと、ところがそんなもんやない。…男やない女の色気を出しよる。あの山田五十鈴に対抗しよる。」と感服し、女優としてのその才能を認めていた。

妻の伊藤榮子とは「おしどり夫婦」として知られ、伊藤は河原崎を「長さん」と呼び深い愛情を寄せていた。日本の優しい父親像を好演し、40代から50代にかけてホームドラマ全盛期にとってかけがえのない存在となる。糖尿病の持病があり、一時病状が小康を得た頃、昼のドラマ『花の咲く家』にて、昼ドラとしては例外的に主役を務めた。1990年代後半から持病の糖尿病から脳血管障害を煩い、療養生活を送る。2003年9月19日、急性心不全のため64歳で死去。

1963年、東映東京で『昭和侠客伝』に出演、以後、東映の任侠・ヤクザ路線映画、また松竹、日活などのヤクザ・ギャング映画にも多数出演することとなる。同年、『十三人の刺客』で片岡千恵蔵と共演。同作は「集団抗争劇」を描き、傑作の呼び声も高い。1965年、『網走番外地』で「八人殺しの鬼寅」を演じ、同シリーズを通しての当たり役となる。

慶応2年4月1日、京都東山の祇園社石段下にて「頓死」する。享年不明。墓所は、大阪市北区の本伝寺。武蔵国日野宿北原にて、八王子千人同心世話役の井上藤左衛門の三男として生まれる。兄・松五郎は千人同心。弘化4年頃、天然理心流の三代目宗家・近藤周助に入門。佐藤彦五郎が天然理心流の出稽古用に設けた道場で土方歳三らと共に稽古に励んだ。また源三郎は近藤勇の兄弟子でもあり、彼らとはこの頃親交を深めたとされる。万延元年、免許皆伝。

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