ドキュメントと関連作品

元治元年、天狗党の乱に参加。上州での献金活動に奔走するが、栃木宿で幕府軍の追討を受け、下野国持宝寺で自害した。享年44。墓碑は生家に建てられている。対馬藩出身。千葉周作の次男、千葉栄次郎の門に入り、北辰一刀流を修めた。 1863年2月、江戸で浪士隊に加わり上京。殿内義雄・家里次郎の一派となる。浪士隊江戸帰還決定後、近藤勇、芹沢鴨らと共に京都に残留。壬生浪士組、結成時24名の一人となる。隊に在籍中は近藤らと共に行動。1863年4月6日に死去。殺害、病死とも。死亡日は3月25日説もある。

1948年、大映京都で『狙われた女』に出演した後、フリーとなる。1949年、マキノ正博監督の『盤嶽江戸へ行く』が新東宝での初演作となる。同作は、マキノが設立したシネマ・アーチスト・コーポレーションの第2回作品で、主演は20年前の前作『盤嶽の一生』同様、大河内傳次郎であった。同年、『白髪鬼』、『私刑』等の現代劇に出演。

甥の井上泰助が源三郎の首を持ち帰ろうとするも、あまりに重かった為、仲間から諭されて戦場近くの寺院の境内に首と刀を埋葬したというエピソードが伝わっている。なおこの寺院の正確な場所は不明。ちなみに墓は日野市の宝泉寺にある。隊内では主に対外的な職務や要人の接待などの総務を担当。同門の近藤や土方とは絶大な信頼で結ばれており、2人をよく補佐していた。八木為三郎は「井上はその頃四十歳くらいで、ひどく無口な、それでいて非常に人の良い人でした」という旨の発言をしており、実際に若い隊士からの人望も厚かったという。一方で頑固な面もあり、一度言い出すとテコでも動かないところがあった。

1949年、マキノ正博監督の『盤嶽江戸へ行く』が新東宝での初演作となる。同作は、マキノが設立したシネマ・アーチスト・コーポレーションの第2回作品で、主演は20年前の前作『盤嶽の一生』同様、大河内傳次郎であった。同年、『白髪鬼』、『私刑』等の現代劇に出演。これは戦後、GHQの「チャンバラ禁止令」によって剣戟映画の製作が禁止されたことによるもので、アラカンら剣戟スターは牙を抜かれたも同然だった。

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