ドキュメントと受賞歴

1927年の『『鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子』から、1956年の『疾風!鞍馬天狗』までの実に30年の長きに渡り、アラカンは40本もの『鞍馬天狗』映画に主演している。新東宝では、黒覆面ではなく天狗の面を着けた「大天狗」という派生的なキャラクターもあった。1928年に寛寿郎が「マキノ御室撮影所」を退社した理由は、『角兵衛獅子功名帖』を「鞍馬天狗最終作」と会社側が勝手に決めてしまったことによる。「そらないやろと、逆ろうたワテは。これはおのれが作った役ですわな。捨てられやしまへん。」と寛寿郎は当時の心境を、後年語っている。1954年、原作者の大佛次郎が自ら『鞍馬天狗』映画の製作に乗り出した。この際にアラカンに鞍馬天狗役を封印させたが、大佛の手掛けた、小堀明男を主演に据えた『鞍馬天狗』は結局、日本映画史に残るとまで言われる大失敗作に終わり、寛寿郎はあおりを食らって代理で2本出る羽目になっている。このときも「言うたら悪いが、生きてる天狗はわてがつくった。」と寛寿郎は、暗に大佛次郎を非難している。

慶応四年一月に勃発した鳥羽・伏見の戦いでは目付を務め、大阪に敗走後、江戸に帰還。その後も在隊し、甲州勝沼の戦いを通して会津にへ向かい、同年八月二十一日の母成峠の戦いで敗走。二十二日に斎藤一こと山口次郎ら38名と共に会津若松城下外堀外の斉藤屋に宿泊した記録を最後に消息を絶った。会津まで新選組に同行した副長助勤は、この尾形と斎藤のみである。尾形の消息は判然としていない。中島登は「行方不明」とし、横倉甚五郎は「会城に残る」としている。いずれにしても新選組本陣から離れており、その後は以下のような諸説があるが、どれも確証がない。尚、会津三代の正福寺に松本喜次郎の墓と共に「尾形」という姓の新選組隊士の墓があったという伝承があるが定かではない。

あまり賞に縁がなかった若山だが、この年『悪魔の手毬唄』と、『姿三四郎』の村井半助役で第20回ブルーリボン助演男優賞を受賞。1979年の『衝動殺人 息子よ』で、戦前からの大スター・高峰秀子と共演を果たし、キネマ旬報主演男優賞、ブルーリボン賞、毎日映画コンクール、日本アカデミー賞などの主演男優賞を受賞した。舞台では1977年の蜷川幸雄演出のミュージカル『三文オペラ』や1978年の『アニー』で、長唄で鍛えた美声を披露。同じく1978年の『歌舞伎模様・天保六花撰』で河内山宗俊に扮して第33回芸術祭大賞を受賞。豪放な性格と合わせ、時代劇や仁侠映画でもダイナミックな役を多く演じたため、『若山富三郎』と言うと豪胆な役しかできないイメージがあるが、現代劇では市井に生きる、言わば彼のイメージとは180度異なる一庶民を情感たっぷりに、なおかつ大御所俳優としてのオーラを打ち消しながら演じる事もできるという点で、若山は所謂『大御所俳優』と言った枠にはまらない実力の持ち主であったと言えよう。そうした俳優としての実力が、多くの後輩俳優達を引きつけた魅力だったとも言える。

天保8年、出羽国由利郡羽広村の百姓・阿部多郎兵衛の次男として生まれる。大坂の谷万太郎の下で剣術を学び文久3年、壬生浪士組に加盟。谷と共に大坂ぜんざい屋事件などに活躍した。元治元年に一度脱退し、慶応元年に復帰したとされる。新選組では伍長・砲術師範などを勤めたが、慶応3年3月に分離して伊東甲子太郎ら12名と共に御陵衛士を結成する。油小路の変時は外出中で難を逃れ、後に事件を知らされたため薩摩藩邸に逃げ込んだ。復讐の機会を窺っていた御陵衛士残党と共に、伏見墨染で近藤勇を襲撃して負傷させる。戊辰戦争では薩摩藩の中村半次郎に属し、鳥羽伏見の戦いなどに参加。後に赤報隊に加わる。戦後は弾正台や開拓使、北海道庁に出仕した。退官後は札幌で果樹園を経営し、リンゴ栽培などを営んだ。明治40年、東京にて死去。享年71。

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