長編作品一覧とエッセイ・対談

維新後も大坂で道場を経営した。西南戦争では、大阪府知事渡辺昇の推薦で一時は抜刀隊の長に擬せられた。のちに道場経営に失敗し、商家の用心棒をしながら余生を過ごした。のち、妻スエと離婚して愛人吉村たみと同棲。明治19年、食道ガンのため大阪にて死去。享年51。墓所は、大阪市北区の本伝寺。文久3年9月以前に、父・馬詰新太郎と共に新選組に入隊。

日本の優しい父親像を好演し、40代から50代にかけてホームドラマ全盛期にとってかけがえのない存在となる。糖尿病の持病があり、一時病状が小康を得た頃、昼のドラマ『花の咲く家』にて、昼ドラとしては例外的に主役を務めた。1990年代後半から持病の糖尿病から脳血管障害を煩い、療養生活を送る。2003年9月19日、急性心不全のため64歳で死去。ヴェネツィア国際映画祭 男優賞を2度受賞し、「世界のクロサワ」の黒澤明と共に「世界のミフネ」と呼ばれた。米映画『グラン・プリ』、70mm『太平洋の地獄 Hell in the Pacific』、仏映画『レッド・サン』など海外作品出演も多数。稼ぎも歴代の日本のスターの中で別格であり、経営する三船プロダクションは東京世田谷区に大手の映画会社に次ぐ規模のスタジオを所有し、大勢のスタッフを常時雇用していた。

弁天台場降伏時に詠まれた辞世の句が残る。戊辰戦争時、同藩士森常吉などと共に藩主・松平定敬を護衛して蝦夷地へ渡り、土方歳三配下の新選組に入隊して箱館戦争に参戦する。 なお、蝦夷地へ渡航するためには新選組隊士とならなければならなかった。敗戦後、警視庁に務めて明治政府に出仕。西南戦争の際には、藤田五郎らと同じく警視局の部隊に所属して奮戦した。その後、三重県尾鷲警察署の巡査に就任し、退職後も商社などの警備員を引き受けていた。背に髑髏の刺繍が施された陣羽織を着ていたらしい。

1972年、テレビ番組『変身忍者嵐』で百地三太夫を演じる。当時は『仮面ライダー』に始まる爆発的な「変身ブーム」のさなかであり、「変身ヒーローの元祖が変身番組に出演」として、アラカンの登場は大変な話題となった。1977年、『男はつらいよ 寅次郎と殿様』に出演。「殿様」と呼ばれる風格溢れる老人を演じ、往年のファンを大いに喜ばせた。

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