評伝・作品評論(文献の一部)と御陵衛士時代

釈放後は相馬主計と行動を共にして旧幕府軍陸軍隊隊長春日左衛門の下に付く。奥羽越列藩同盟とともに常磐口で官軍と抗戦した。奥羽越列藩同盟壊滅後、仙台へ向かい、そのとき榎本武揚艦隊および土方歳三らと合流し、蝦夷地へ渡った。野村は新選組に復帰せず、陸軍隊の一隊を任されていたが、隊長春日の統率姿勢に不満を持ち、命令違反などのトラブルを起こす。蝦夷共和国成立後は、土方の直属である陸軍奉行添役に就任した。明治2年3月25日、宮古湾海戦の際、回天に乗船していた野村は、真っ先に甲鉄艦に斬り込んで行ったと言われている。野村はこのとき戦死した。撤退に間に合わずに甲鉄艦上で戦死したため、新政府軍により遺体は海に棄てられたと言う。享年26。函館称名寺の新選組供養碑にその名が刻まれている。元治元年、局長近藤勇による隊士募集に応じて新選組に入隊。

文久3年5月頃に入隊。 同年8月2日、何者かに暗殺されて、変死体で見つかる。 この愛次郎の死には二つの説がある。 一説は、愛次郎の恋人のあぐりを芹沢鴨に妾として渡すよう命じられ、悩んでいたところ、 芹沢の部下である佐伯又三郎に駆け落ちをすすめられ、新選組を脱隊し、あぐりと共に京をあとにしようとする。 しかしそれは佐伯と芹沢の罠で、朱雀の藪の中を通り過ぎようとした愛次郎は 待ち伏せしていた佐伯に惨殺されてしまう。また恋人のあぐりも佐伯に暴行を加えられ、舌を噛み切って自害する、というものだ。 もう一説は、佐々木愛次郎は長州の間者であったが新選組の理想に感銘しそのまま長州を裏切る事になる。 その事が長州側に発覚し長州側に暗殺された、というものである。が真相は定かではなく、資料も少ない。隊内きっての美男剣士という評判が伝えられている。水戸藩卒。現在の常陸大宮市御前山村野口平、粕谷忠兵衛の子として生まれる。安政5年、孝明天皇から密かに下賜された戊午の密勅の返還に反対し、家督を長男の親之助に譲り、脱藩した。

弟は俳優の河原崎次郎、河原崎建三。東京都立武蔵高等学校卒業。早稲田大学中退。妻の伊藤榮子とは「おしどり夫婦」として知られ、伊藤は河原崎を「長さん」と呼び深い愛情を寄せていた。日本の優しい父親像を好演し、40代から50代にかけてホームドラマ全盛期にとってかけがえのない存在となる。糖尿病の持病があり、一時病状が小康を得た頃、昼のドラマ『花の咲く家』にて、昼ドラとしては例外的に主役を務めた。1990年代後半から持病の糖尿病から脳血管障害を煩い、療養生活を送る。

同作で伊藤監督は、寛寿郎に百メートル疾走する立ち回りを要求し、出来あがった映画で裾さばきが乱れていないことに感心し、「あれもほんとうのわざおぎです。」と評している。悲壮美あふれる阪東妻三郎、躍動感の大河内傳次郎の殺陣に比べ、嵐寛寿郎の殺陣は華麗そのものであった。幼い時より仕込まれた歌舞伎舞踊の要素が物を言った見事な立ち回りであった。大映時代は『海峡の風雲児』)、『河童大将』)等が代表作とされる。大映京都での7年間では、アラカンは「鞍馬天狗」役は1本に留まった。

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