評伝・作品評論(文献の一部)とドキュメント

長唄三味線の杵屋勝東治と妻・八重子の長男として東京市深川区に生まれる。 勝新太郎は二歳下の弟。元妻は女優藤原礼子で、宝塚歌劇団卒業生で、のち大映映画で活躍した。その息子若山騎一郎も俳優。幼少の頃より弟・勝新太郎とともに長唄の修行を始めるが、なかなか専念せず柔道にのめり込んだ。日大三中在学中は一年生を三回落第するほどの腕白だった。

同作では、大蔵貢社長じきじきに「日本映画界初の天皇俳優にならんか」とこの役を持ちかけられ、寛寿郎は余りの大役に戸惑いつつも、御真影や説話のイメージ通りの威厳ある明治天皇を演じて話題となり、作品は空前の大ヒットを記録する。つづけて明治天皇役を演じたが、マンネリ化し、3作で降板。「天皇役は負担やった。」と後年述べている。『大東亜戦争と国際裁判』)では東條英機、『皇室と戦争とわが民族』)では神武天皇を演じる。新東宝では数少ないスター俳優のひとりであり、歴史上の大人物を演じることが多かった。アラカンは綜芸プロ・新東宝では「鞍馬天狗」を3作、「むっつり右門」を6作演じている。

三河国挙母藩出身。嘉永3年に脱藩し、知恩院一心寺に入寺する。その後、文久3年5月までに壬生浪士組に入隊していることが明らかになっており、6月の新選組結成時には副長助勤に就任している。池田屋事件では近藤勇隊に所属し、奥沢栄助や新田革左衛門と共に池田屋裏庭の防御に当たったが、逃亡を図る尊皇攘夷志士の猛攻を喰らい、深手を負う。その負傷がもとで、同年7月22日に逝去。墓は壬生寺と聞名寺にある。後に会津藩から別段金20両を賜った。文久三年頃に壬生浪士組に入隊し八月十八日の政変に参加。池田屋事件には不参加だった。 近藤勇に反発した永倉新八、原田左之助らとともに建白書を提出した。

墓は、京都市東山区の戒光寺。慶応4年3月13日、御陵衛士により京都市下京区の光縁寺から改葬された。元姫路藩士堀川福太郎の門人で神道無念流の免許皆伝。花火の事故で左目がつぶれて隻眼だった。目が潰れた左側から打ち込むと猛烈に切り返し、逆に見えるはずの右側からだとわりあいに隙があったという。安政6年に横浜戸塚の直心陰流萩原連之助の道場を訪ねた記録が残っている。文久3年2月 清河八郎献策の浪士組に参加。芹沢鴨の六番組に配属され上京。清河の画策によって浪士組が江戸へ帰還すると、芹沢、近藤勇らとともに京都に残留。残留浪士たちは京都守護職会津藩御預りとなり壬生浪士組を結成。平山は幹部の副長助勤となった。壬生浪士組は芹沢鴨、新見錦ら水戸派と近藤勇、土方歳三らの試衛館派に分かれ、平山は水戸派に属し芹沢と行動を共にする。

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