関連作品と諸士取調役兼監察方/浪士調役

新選組加盟の時期は不明だが、元治元年6月に副長助勤、同年12月に八番組長、慶応元年4月に七番組長・槍術師範を務める。池田屋事件では近藤隊に属し、事件後、褒賞金として17両を賜る。慶応元年1月、弟万太郎ら4名で大坂焼き討ち計画を未然に防ぎ、大坂の豪商・加賀屋四郎兵衛に対する献金要請の際は交渉役を務め、3万1500両もの大金を得ることに成功している。その間、弟周平は近藤勇の養子となっている。慶応2年4月1日、京都東山の祇園社石段下にて「頓死」する。享年不明。墓所は、大阪市北区の本伝寺。武蔵国日野宿北原にて、八王子千人同心世話役の井上藤左衛門の三男として生まれる。兄・松五郎は千人同心。

水木しげるの漫画作品になぜかよく登場していて、タコに子供を生ませたり、鬼太郎とともに妖怪を退治したこともある。長唄三味線の杵屋勝東治と妻・八重子の長男として東京市深川区に生まれる。 勝新太郎は二歳下の弟。元妻は女優藤原礼子で、宝塚歌劇団卒業生で、のち大映映画で活躍した。その息子若山騎一郎も俳優。幼少の頃より弟・勝新太郎とともに長唄の修行を始めるが、なかなか専念せず柔道にのめり込んだ。

入隊は文久三年五月二十五日以降。同年六月の編成では、副長助勤を務めている。八月十八日の政変に参加したものと考えられるが、元治元年(1864年六月の池田屋事変には不参加である。屯所警備に重んじていたか、もしくは当時隊内に病人が多かったらしいことから、尾形もその一人とも考えられる。同年十二月に長州征討を考えた行軍録では、五番組組頭に就任している。近藤勇の信頼が厚かったようで、初期より重用され、元治元年に江戸への隊士募集行きや、慶応元年と慶応二年の二度に渡る長州出張に例外なく随行している。慶応元年四月の編成では、諸士取調役兼監察方及び文学師範に就任し、文官として高く評価されていたようである。慶応三年六月の幕臣取立では、副長助勤として見廻組格となっている。

新選組初期に、長州藩・桂小五郎の命で間者として入隊したとされる。若々しく目がぱっちりした色白下ぶくれの顔で、女のように優しい声をしていたと言われる。自称、京都浪人17歳。元治元年9月26日の濃霧の朝4つ時、新選組屯所の1つとして使われていた前川邸の門前でぼんやりしていたところを近藤勇より命を受けた原田左之助に背後から斬りつけられ、そのまま水菜畑に逃れ倒れて死亡した。

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