テレビドラマと関連作品

1942年、日活京都を退社。大映京都撮影所へ移る。同年、大映移籍第一作『鞍馬天狗』公開。同作で伊藤監督は、寛寿郎に百メートル疾走する立ち回りを要求し、出来あがった映画で裾さばきが乱れていないことに感心し、「あれもほんとうのわざおぎです。」と評している。

アラン・ドロンは三船を『日本の兄』と尊敬し、自らがプロデュースするブランドの香水「サムライ SAMOURAI」の香りのイメージを、「三船敏郎を基調とした日本のサムライ」とした。また20世紀を代表する世界的な有名俳優であるマーロン・ブランドも飛行機に乗っていた際、三船が同乗している事を知るや自分から挨拶に行ったというエピソードがあり、三船が死去した時も弔電を送っている。黒澤のファンとしてその影響を受けたジョージ・ルーカスが監督を務めた『スター・ウォーズ』で、ダース・ベイダー役の申し出を断り、『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』にてダース・ヴェイダーの素顔、アナキン・スカイウォーカーの役をオファーされるが、これも辞退した。スティーヴン・スピルバーグが監督を務めた『1941』に日本人潜水艦長役で出演するが、興行的には失敗に終わった。なお、『ベスト・キッド』のミヤギ役は断っている。

菅原が1969年に東映で初の主役をもらう事になった際、菅原を妬んだ東映生え抜きの役者連中が若山に「菅原が天狗になってます。何とかしてください。」等と告げ口した。菅原自身は若山には礼を尽くしていたので、若山はなかなか告げ口を信じなかったが、遂にとりまき達に乗せられ、「そうか、分かった。アイツ自身のためにみんなの前で殴る」と菅原を殴ることに。東映撮影所の建物の前に椅子を持ち出して待ち構え、通りかかった菅原を見つけ「オイ!文太!」と声を掛けた。 ところがそれを機敏に察知した菅原は、クルリと引き返し若山の手を取って「オヤッさん、ありがとうございます。オヤッさんのおかげで主役を張ることが出来ました」とうやうやしく挨拶した。気勢をそがれた若山は「おお、そうか…文太、お前の部屋にテレビはあるのか!?」と聞き、菅原が「ありません」と答えると、「じゃあみんなでお祝いに買ってやる」「おい!新伍!新伍!!」と奥で隠れてそのやり取りを見ていた子分の山城新伍から三万円を出させ、テレビを買い与えた。

文久2年に放免され、翌文久3年、浪士組に参加する。同年3月、浪士組の江戸東帰が決まると、近藤勇、芹沢鴨らとともに京に残留したが、その後脱退し、郷里に戻った。元治元年、天狗党の乱に参加。上州での献金活動に奔走するが、栃木宿で幕府軍の追討を受け、下野国持宝寺で自害した。享年44。墓碑は生家に建てられている。対馬藩出身。千葉周作の次男、千葉栄次郎の門に入り、北辰一刀流を修めた。 1863年2月、江戸で浪士隊に加わり上京。殿内義雄・家里次郎の一派となる。浪士隊江戸帰還決定後、近藤勇、芹沢鴨らと共に京都に残留。壬生浪士組、結成時24名の一人となる。隊に在籍中は近藤らと共に行動。

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