評伝・作品評論(文献の一部)と小説家へ

1992年4月2日、中村玉緒、勝新太郎、清川虹子と麻雀をしている最中に倒れ急性心不全のため死去、62歳没。兄想いだった弟の勝新太郎は、カメラの前でその遺骨を食べ、涙を流した。その勝も5年後の1997年6月21日、下喉頭ガンのため65歳で死去した。東映に、新東宝の後輩、菅原文太が移籍し、若山に挨拶に行った際、若山は「もう安藤んとこの若い衆になったのか?」「なってません」「そーか!ならワシんとこの若い衆になれ!」と気にかけるほど菅原を可愛がっていた。菅原が1969年に東映で初の主役をもらう事になった際、菅原を妬んだ東映生え抜きの役者連中が若山に「菅原が天狗になってます。何とかしてください。」等と告げ口した。菅原自身は若山には礼を尽くしていたので、若山はなかなか告げ口を信じなかったが、遂にとりまき達に乗せられ、「そうか、分かった。アイツ自身のためにみんなの前で殴る」と菅原を殴ることに。

元俳優で映画プロデューサーの三船史郎は本妻との、タレントの三船美佳は内縁の妻との間にできた子供。中華民国・山東省青島で貿易商、写真業を営む三船徳造の長男として生まれる。父は秋田県鳥海町出身。若い頃からワルだったと言う。その後大連に移り住み、大連中学卒業後、甲種合格で兵役につく。写真の経験・知識があるということから満洲国・公主嶺の陸軍第七航空教育隊に配属され航空写真を扱う司令部偵察機の偵察員となる。後年もカメラに対するこだわりは深かったという。その後滋賀県八日市の「中部九八部隊・第八航空教育隊」に写真工手として配属され、1943年に同部隊に現役入隊した鷺巣富雄とは、その後生涯にわたる交友関係となった。鷺巣は三船の写真技術の高さを認め、円谷英二、大石郁雄と並んでの映画界の師と仰いでいる。

剛毅な性格であった寛寿郎は、この「寛プロ」解散に前後して新興キネマの身売り話が持ち上がったことにかこつけて、新興側の永田雅一が寛寿郎に対して「寛プロ」解散費用を全負担し、「八千円の給料」と言う破格の条件で入社をもちかけたところ、「従業員はほっといてお前だけ来い。」との永田の一言に激怒。永田と衝突した結果、寛寿郎は自社の従業員を新興に送り込んで、自身は半年ほど映画界から追放された。従姉妹の森光子は「おとなしいような顔をして、その実は大変な反逆児なんですね。永田雅一さんにさからうなんて、当時考えられないころです。それで一時にせよ映画スターをやめちゃったんですから、あの方は徹底してるんです。」と証言している。こうしたことで「寛プロ」解散後、しばらく寛寿郎は無聊を託っていた。元来新しい物好きで自家用車に凝っていたこともある寛寿郎は、二等飛行操縦士のライセンスを取り、ドイツ製のフォッカーを購入、自家用飛行機を持つまでに至った。このライセンスを生かし、遊覧飛行のアルバイトをしていたが、客から「アラカンや。ヒコーキ屋とはけしからん!」と騒がれ、「アホ!人違いや。せやけど、聞きずてならへん。アラカンやったらなんでアカンねん。金払ろてとっと去ね!」とやりかえし、後年、「役者やっとったらこうはいきまへん。稼ぎは別として、楽しい毎日やった。」と述懐していた。

阿波の出身。大阪とも。文久三年六月以降に新選組に入隊。八月十八日の政変に参加したが池田屋事件には不参加。慶応元年七月までの在隊が確認されている。このときに松原忠司とともに柔術師範となる。慶応三年頃に知友の村田左衛門に隊内の機密情報を漏洩。当時、五十歳前後とされ、隊内最高齢者であったという。また、碁打ちを好んだという。漏洩が関係したのか、同年六月以前に脱走した。その後の消息は不明。備中松山藩士・谷三治郎供行の二男として備中松山に生まれる。幼少期より父三治郎から武術を学ぶ。安政3年10月頃、不祥事案により谷家は断絶となる。

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