新選組時代と評伝・作品評論(文献の一部)

慶応元年の江戸での隊士募集に応募して新選組に入隊。慶応3年3月に伊東甲子太郎らが脱退して御陵衛士を結成した際には、そのまま組に残留した。同年6月、新選組の幕臣取立てに反発し、御陵衛士に合流しようとするが新選組との規定により叶わなかった。その後、京都守護職邸で近藤勇らと脱隊の話し合いをするがこれも叶わず、茨木司、佐野七五三之助、中村五郎と共に同所で自刃した。

ところがその蓄えが実ろうかという頃合になって、その卑屈な態度を逆に疎ましがった芹沢鴨に手打ちにされてしまった。阿波の出身。大阪とも。文久三年六月以降に新選組に入隊。八月十八日の政変に参加したが池田屋事件には不参加。慶応元年七月までの在隊が確認されている。このときに松原忠司とともに柔術師範となる。慶応三年頃に知友の村田左衛門に隊内の機密情報を漏洩。当時、五十歳前後とされ、隊内最高齢者であったという。また、碁打ちを好んだという。漏洩が関係したのか、同年六月以前に脱走した。その後の消息は不明。

伊勢松坂小林清右衛門の次男として生まれる。文久3年に浪士組に参加。 京につくと近藤勇、芹沢鴨、殿内義雄らとともに京に残る。鵜殿鳩翁から、殿内と共に浪士組内の壬生村での残留者の取りまとめの責任者の役目を任される。その後主導権争いで殿内は暗殺、根岸友山も脱退し、孤立し出奔した家里は、大坂にいたところを芹沢に切腹させられた。 なお、家里次郎の死からわずかひと月足らずの5月18日、兄である儒学者・家里松嶹も京都にて何者かによって暗殺されている。「甲子太郎」は”きねたろう”とも読めるが、同時代の史料に「樫太郎」と表記されたものがあることから、”かしたろう”が正しいとされる。常陸志筑藩士・鈴木専右衛門忠明の長男として生まれる。家老との諍いにより父忠明が隠居した後、伊東が家督を相続したものの、後に忠明の借財が明らかになったことから追放される。伊東は水戸へ遊学し、水戸藩士・金子健四郎に剣を学び、また、水戸学を学んで勤王思想に傾倒する。追放後の忠明は東大橋にて村塾を主宰し、遊学を終えて帰郷した伊東も教授に当たった。のちに深川佐賀町の北辰一刀流剣術伊東道場に入門するが、道場主伊東精一に力量を認められて婿養子となり、伊東大蔵と称した。

1927年、「マキノ御室撮影所」製作の『鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子』でデビュー。以降マキノの看板スターとして、この年、実に20本近い数の映画に出演、「鞍馬天狗シリーズ」のほか『鳴門秘帖』・『百万両秘聞』などでもヒットを飛ばす。マキノでの2年間で、アラカンは「鞍馬天狗」を3作演じている。1928年、『新版大岡政談 前編・中篇』のニ作で丹下左膳を演じたのを最後に、「マキノ御室撮影所」から独立、「嵐寛寿郎プロダクション」を設立。独立の理由には、鞍馬天狗を巡るマキノとの軋轢があった。

戻る