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1986年、紫綬褒章、1993年に勲三等瑞宝章を受章。1988年、第6回川喜多賞を受賞。1997年、12月24日に全機能不全のため77歳にて死去。晩年は軽度の認知症を発症していたといわれ、週刊誌やワイドショー等の話題となっていた。遺作は1995年の『深い河』だった。

同年12月7日の天満屋事件の際には、紀州藩の依頼を受けて、紀州藩士三浦休太郎を護衛していた。海援隊士らの襲撃のとき三浦とともに酒宴を開いていた新選組は遅れをとり、宮川信吉と舟津釜太郎が死亡したほか、梅戸勝之進が斎藤をかばって重傷を負うなどの被害を出したものの、護衛には成功している。慶応4年1月に鳥羽・伏見の戦い、3月に甲州勝沼の戦いと転戦。いずれも最前線で戦った。近藤が流山で新政府軍に投降したあと、江戸に残った土方歳三らといったん別れ、隊士たちの一部を率いて会津へ向かった。一方、このとき斎藤は負傷して戦列を離れており流山にはいなかったという説もある。こちらの説では、隊士を率いて会津に向かったのは粂部正親または安富才助とされている。土方は同年4月の宇都宮城の戦いに参加、足を負傷して戦列を離れ、田島を経由して若松城下にたどり着き、斎藤らと合流した。斎藤をはじめとする新選組は会津藩の指揮下に入り、閏4月5日には白河口の戦いに参加、8月21日の母成峠の戦いにも参加した。敗戦により鶴ヶ城下に撤退。土方と合流したのはこの撤退の最中、猪苗代でのことだった。その後、土方らは庄内に向かい、大鳥圭介ら旧幕臣の部隊は仙台に転戦したが、斎藤は会津に残留し、会津藩士とともに城外で新政府軍への抵抗を続けた。9月22日に会津藩が降伏したあとも斎藤は戦い続け、容保が派遣した使者の説得を受け入れてやっと新政府軍に投降した。降伏後は捕虜となった会津藩士とともに、はじめは旧会津藩領の塩川、のち越後高田で謹慎生活を送った。

なお、死後の1999年には、ミフネの演じたサムライへのオマージュともいえるデンマーク映画『ミフネ』がベルリン映画祭銀熊賞を受賞した。★印は黒澤明監督作品。◎印は岡本喜八監督作品。

この他の「多岐流太郎」名で現存している作品には「怪奇・伝奇時代小説選集 1」収録の「幻法ダビデの星」がある。大阪市生まれ。本名・友一。早稲田大学仏文科卒。「都新聞」記者となり、1939年『文学者』に『残夢』を発表して作家生活に入る。風俗小説作家として活躍、戦後は雑誌『風雪』に参加したが、『絶壁』が、宇野千代・北原武夫夫妻をモデルとしていると言われ、抗議を受けた。1970年代には、忘れられた作家となっていた。短編「日本ロォレライ」などがある。300本以上の映画に出演した、戦前映画界の大衆のヒーロー。剣戟王・阪東妻三郎には三歩下がって道を空けていたものの、押しも押されもせぬ「時代劇」の大剣戟スターである。

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