映像化作品とTVドラマ

1988年、第6回川喜多賞を受賞。1997年、12月24日に全機能不全のため77歳にて死去。晩年は軽度の認知症を発症していたといわれ、週刊誌やワイドショー等の話題となっていた。遺作は1995年の『深い河』だった。1951年に『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、クロサワとともにミフネの名も世界に知れ渡った。1961年に初の海外作品『価値ある男』ではメキシコ人役で主演。その後の海外の名優との競演は、以下の作品などが挙げられる。

1923年1月25日、東京市浅草区聖天町に生れる。父・富治郎は日本橋の錦糸問屋に勤める通い番頭、母・鈴は浅草の錺職今井教三の長女で、正太郎は長男であった。この年、関東大震災が起こり、両親とともに埼玉県浦和に引越し、6歳まで同地で過ごす。やがて、両親は東京に転居。正太郎は根岸小学校に入学する。商売の思わしくなかった富治郎は近親の出資によって下谷上根岸で撞球場を開業するも、両親不和のためこの年に離婚した。正太郎は母に引き取られて浅草永住町の祖父の家に移り、学校は下谷の西町小学校に転入した。祖父今井教三は御家人の家に養子入りした職人気質・江戸っ子気質の人物で、忙しい母親に代わって正太郎をかわいがった。この時期、母は働きながら今井家の家計を支え、一時正太郎を預けたまま再婚をしたが、不縁となり、実家に戻った。この二度目の結婚によって、正太郎には異父弟が一人できた。小学校時代の正太郎は図画を好んで将来は鏑木清方の弟子となることを夢見る一方、チャンバラものの映画と少年向け小説を大いに好み、小遣い銭で買い食いを楽しんでいた。1935年、 西町小学校を卒業した。担任の教師は進学を勧めたが、家庭の事情により奉公に出た。親戚の伝手によって最初株式現物取引所田崎商店に出るが、半年あまりでペンキ屋に奉公を変わり、さらにそこも退いて株式仲買店松島商店に入った。以後、1942年に国民勤労訓練所に入所するまで、同店で過ごした。チップや小遣い銭を元手に内緒の相場に手を出し月給を上回る収入を得ていた。兜町時代の正太郎はこれを「軍資金」として読書、映画、観劇にはげみ、登山や旅行を楽しみ、剣術道場にも足を運ぶ一方、諸方を食べ歩き、吉原で遊蕩にふけるなどした。特にこの時期、読書・映画への興味が深まったことはもとより、歌舞伎・新国劇・新劇などの舞台を盛んに見物し、歌舞伎への理解を深めるために長唄を習うまでした。

野口健司の葬儀の際に、武田観柳斎とともに頼越人を務める。子母澤寛著『新選組物語』には、男色家の武田観柳斎に惚れられて迷惑し、副長土方歳三に訴えて脱退させてもらったとの話が残るが、子母澤の創作だと言う声もある。同書によれば、隊務が無い時はおしゃれな恰好をして出かけ、笑うと両頬にえくぼができ、笑う時も怒る時もまるで若い女のようだったらしい。明治20年頃に壬生を訪れた時も若々しく、27、8歳にしか見えなかったと言う。入隊は文久3年秋以降。元治元年6月5日の池田屋事件では、土方歳三の隊に所属し、屋外の守備を担当した。後に十五両の褒賞金を得ている。

1925年、独立した市川右太衛門の後釜として片岡千恵蔵とともに「マキノ・プロダクション」に迎えられる。このとき、牧野省三から嵐長三郎の名を与えられた。1927年、「マキノ御室撮影所」製作の『鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子』でデビュー。以降マキノの看板スターとして、この年、実に20本近い数の映画に出演、「鞍馬天狗シリーズ」のほか『鳴門秘帖』・『百万両秘聞』などでもヒットを飛ばす。マキノでの2年間で、アラカンは「鞍馬天狗」を3作演じている。

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