映像化作品と全集・選集

1927年、十一代目片岡仁左衛門が、稽古のとき、「踊りが下手だ」と有望な若手俳優の顔面を真剣で殴打した。その場に居合わせた寛寿郎は、「いくら才能があっても門閥如何では出世できないのか」と衝撃を受け、映画界入りを決意したという。なお、その時の殴られた俳優はのちの片岡千恵蔵であった。1931年、アメリカの活劇俳優のダグラス・フェアバンクスが来日の折、滞在先の京都ホテルで寛寿郎は英語のスピーチをし、「わてが映画俳優として最初に英語で挨拶したんだす。」と後年まで自慢していた。なお、そのときの言葉は「ウェルカム・ダゴラス!」のみであった。1951年、鞍馬天狗の「杉作」役で共演した美空ひばりについて、「美空ひばりにはたまげた。まあいうたら子供の流行歌手ですよってな、多くは期待しませんでした。かわゆければよいと、ところがそんなもんやない。…男やない女の色気を出しよる。あの山田五十鈴に対抗しよる。」と感服し、女優としてのその才能を認めていた。

新選組では伍長・砲術師範などを勤めたが、慶応3年3月に分離して伊東甲子太郎ら12名と共に御陵衛士を結成する。油小路の変時は外出中で難を逃れ、後に事件を知らされたため薩摩藩邸に逃げ込んだ。復讐の機会を窺っていた御陵衛士残党と共に、伏見墨染で近藤勇を襲撃して負傷させる。戊辰戦争では薩摩藩の中村半次郎に属し、鳥羽伏見の戦いなどに参加。後に赤報隊に加わる。戦後は弾正台や開拓使、北海道庁に出仕した。退官後は札幌で果樹園を経営し、リンゴ栽培などを営んだ。明治40年、東京にて死去。享年71。元治元年に新選組に入隊。戊辰戦争時には、鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦いに参戦し、白河口の戦いにおいて戦死したとされる。享年29。死亡日は閏4月25日説もあり。

1837年、常陸志筑藩士・鈴木専右衛門忠明の二男として志筑に生まれる。のちに藩から追放された父忠明は、高浜村にて私塾を主宰したが、忠明死後は代わって私塾を経営した。のち、同藩士・寺内増右衛門の養嗣子となって寺内多聞と称し、藩の山林取締役兼御朱印番に就いたものの、飲酒など素行不良のために離縁される。その後、三木荒次郎を称す。尊王攘夷運動に奔走すべく藩を脱した三樹三郎は、江戸深川の道場主・兄伊東のもとに身を寄せる。桜田門外の変後、浪人に対する詮議が厳しくなった江戸を離れ、数年もの間、常陸国多賀郡にて隠棲する。天狗党の争乱の際は、伊東の探索依頼を受けて志筑へ戻ったが、争乱終結後は帰順することなく江戸へ戻る。1864年10月、旧知である藤堂平助の隊士募集の求めに応じ、伊東や篠原泰之進らと共に上洛する。のち、正式に新選組に加盟する。このころ、三木三郎と称す。目付を務めた後、1865年に九番隊組長。

しかし、元々病弱だったらしく、慶応元年4月には、京坂における隊士募集に回っている。その後、除隊され、同年11月17日に死去した。新選組行軍録には名を連ねるも、板橋の墓碑に名は見当たらない。池田屋事件の際に果敢に働き、不逞浪士取締り活動の報奨金17両を江戸幕府より拝領した。また、局長近藤勇の家臣ではないとして、近藤の非行・増長を5箇条に纏めた建白書を隊長の永倉新八、原田左之助、斉藤一、伍長の島田魁、葛山、諸士調役の尾関雅次郎らが綴り会津藩に提出。その後、容保の取り計らいにより近藤との和解となったが、葛山は切腹をした。葛山が、最後まで頑強に抗議したための憤死とも、反発への見せしめのために3人の軽輩者の内、年長者で従順な島田や、尾関ではなく、血の気の多く首脳陣に怖じない葛山に責任を負わせて手打ちにしたともいわれている。天保8年、出羽国由利郡羽広村の百姓・阿部多郎兵衛の次男として生まれる。大坂の谷万太郎の下で剣術を学び文久3年、壬生浪士組に加盟。谷と共に大坂ぜんざい屋事件などに活躍した。元治元年に一度脱退し、慶応元年に復帰したとされる。

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