演じた俳優・声優とエッセイ・対談

日大三中在学中は一年生を三回落第するほどの腕白だった。1949年、20歳のときに長唄の和歌山富十郎に弟子入りし、若山富三郎を名乗る。1954年、新東宝にスカウトされ、演技経験のない新人としては破格の高給と運転手付きの車の送迎を約束させ入社。翌年、映画『忍術児雷也』で映画デビュー、『人形佐七捕物帖』シリーズなどの時代劇に主演。1958年、TV時代劇『銭形平次』に主演。新東宝の経営が苦しくなると1959年に東映に移籍し、同様に『人形佐七捕物帖』シリーズで主演し、脇役も多数こなした。

明治2年5月15日に弁天台場が降伏し、横倉は同所にて謹慎を言い渡されていたが、元京都見廻組今井信郎などと共に坂本龍馬、伊東甲子太郎暗殺の嫌疑をかけられ、同年11月9日、東京の糾問所に送検されて取り調べを受けた。明治3年8月15日、獄死。享年37。弁天台場降伏時に詠まれた辞世の句が残る。

妻の伊藤榮子とは「おしどり夫婦」として知られ、伊藤は河原崎を「長さん」と呼び深い愛情を寄せていた。日本の優しい父親像を好演し、40代から50代にかけてホームドラマ全盛期にとってかけがえのない存在となる。糖尿病の持病があり、一時病状が小康を得た頃、昼のドラマ『花の咲く家』にて、昼ドラとしては例外的に主役を務めた。1990年代後半から持病の糖尿病から脳血管障害を煩い、療養生活を送る。2003年9月19日、急性心不全のため64歳で死去。

元治元年9月26日の濃霧の朝4つ時、新選組屯所の1つとして使われていた前川邸の門前でぼんやりしていたところを近藤勇より命を受けた原田左之助に背後から斬りつけられ、そのまま水菜畑に逃れ倒れて死亡した。その光景を八木家次男・為三郎が目撃していたと言う。能吏であり経済官僚としての実績が大きいが、新撰組に暗殺されたと伝わる最期の為に評価のポイントがずれている。

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