その他のテレビ番組と浪人時代

丹後国宮津出身。元々浪人であったが、1864年12月までの京坂における隊士募集に応じて加盟する。伍長、諸士調査役兼監察、勘定役並小荷駄方、勘定方などを務めた。なお、行軍録においては、谷三十郎が指揮する八番大炮組に属している。新選組の幕臣取立て論に反対して脱退を申し出ているが、1867年6月の幕臣取立て時には、見廻組並御雇となっている。同年11月17日には、「伏見御用」として25両を原田左之助とともに受け取るとの記録が残っており、また、永倉新八の「浪士文久報国記事」によれば、伊東甲子太郎暗殺にも関与したとされる。1868年の鳥羽伏見の戦い後に江戸へ帰還する。甲陽鎮撫隊には歩兵頭として従軍するが、甲州勝沼の戦いで負傷して再度江戸へ帰還する。同年2月の脇差購入の記録を最後に消息が不明となり、その後、隊を脱したと思料される。離隊後は、彰義隊に関わったとされる。一説によれば、維新後に京都の原田左之助未亡人を訪問し、原田の最期と戒名を伝えたとされる。

1989年、1月に昭和天皇が崩御し、平成と改元。正太郎も前年末から体調は芳しくなかったが、回復を待って『剣客商売 浮沈』、『仕掛人・藤枝梅安 梅安冬時雨』、『鬼平犯科帳 誘拐』の連載を開始した。5月には銀座和光で個展「池波正太郎絵筆の楽しみ展」が開催された。明けて1990年、二代目中村吉右衛門主演のテレビドラマ『鬼平犯科帳』が好評を博し、2月には同優主演の『狐火』が歌舞伎座で上演されるが、正太郎の体調は依然芳しくなかった。3月、急性白血病で三井記念病院に緊急入院、5月3日に同病院にて逝去。67歳であった。連載中の『仕掛人・藤枝梅安 梅安冬時雨』と『鬼平犯科帳 誘拐』は同年4月号分で未完中絶となった。5月6日、千日谷会堂にて葬儀及び告別式。山口瞳が弔辞を読んだ。法名戒名は「華文院釈正業」。浅草西光寺に葬られる。没後、勲三等瑞宝章受章。1998年11月、長野県上田市に「池波正太郎真田太平記館」が開館した。自衛隊に入隊、のちアパレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、『とられてたまるか!』でデビュー。悪漢小説ののち、『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員』で直木賞を受賞。時代小説やエッセイのほか、『蒼穹の昴』『中原の虹』などの中国歴史小説がある。映画化、テレビ化された作品も多い。日本の大衆小説の伝統を受け継ぐ代表的な小説家といえる。2008年現在、直木賞、吉川英治文学新人賞、山本周五郎賞選考委員。

1928年に寛寿郎が「マキノ御室撮影所」を退社した理由は、『角兵衛獅子功名帖』を「鞍馬天狗最終作」と会社側が勝手に決めてしまったことによる。「そらないやろと、逆ろうたワテは。これはおのれが作った役ですわな。捨てられやしまへん。」と寛寿郎は当時の心境を、後年語っている。1954年、原作者の大佛次郎が自ら『鞍馬天狗』映画の製作に乗り出した。この際にアラカンに鞍馬天狗役を封印させたが、大佛の手掛けた、小堀明男を主演に据えた『鞍馬天狗』は結局、日本映画史に残るとまで言われる大失敗作に終わり、寛寿郎はあおりを食らって代理で2本出る羽目になっている。このときも「言うたら悪いが、生きてる天狗はわてがつくった。」と寛寿郎は、暗に大佛次郎を非難している。人物伝としてはこの奇骨の人物を愛した竹中労による『聞書 アラカン一代』がある。晩年のインタビューによると原作者の「天狗が人を斬りすぎる」という意見に対して、アラカンは「活動大写真」としての立場から同意していない。

深夜、数人の男たちが突然部屋に押し入り、芹沢と平山に切りつけた。平山は起きる間もなく即死。芹沢は起き上がって逃れようとするが、倒れてめった斬りされて殺された。お梅も惨殺された。平山と同衾していた吉栄は難を逃れている。襲撃が行われた時にたまたま便所に行っていたという。別室にいた平間は逃亡。刺客が立ち去り、八木家の人々が様子を見に行くと部屋は血の海で平山の首は胴から離れていた。享年35。表面的には長州藩の仕業として処理されたが、刺客は、土方歳三、山南敬助、沖田総司、原田左之助と言われている。

戻る