全集・選集とエッセイ・対談

大阪市生まれ。本名・友一。早稲田大学仏文科卒。「都新聞」記者となり、1939年『文学者』に『残夢』を発表して作家生活に入る。風俗小説作家として活躍、戦後は雑誌『風雪』に参加したが、『絶壁』が、宇野千代・北原武夫夫妻をモデルとしていると言われ、抗議を受けた。1970年代には、忘れられた作家となっていた。短編「日本ロォレライ」などがある。300本以上の映画に出演した、戦前映画界の大衆のヒーロー。剣戟王・阪東妻三郎には三歩下がって道を空けていたものの、押しも押されもせぬ「時代劇」の大剣戟スターである。日本映画の巨匠の一人・山中貞雄に活躍の場所を与えた点でも記憶される。通称「アラカン」、「天狗のおじさん」。

1923年1月25日、東京市浅草区聖天町に生れる。父・富治郎は日本橋の錦糸問屋に勤める通い番頭、母・鈴は浅草の錺職今井教三の長女で、正太郎は長男であった。この年、関東大震災が起こり、両親とともに埼玉県浦和に引越し、6歳まで同地で過ごす。やがて、両親は東京に転居。正太郎は根岸小学校に入学する。商売の思わしくなかった富治郎は近親の出資によって下谷上根岸で撞球場を開業するも、両親不和のためこの年に離婚した。正太郎は母に引き取られて浅草永住町の祖父の家に移り、学校は下谷の西町小学校に転入した。祖父今井教三は御家人の家に養子入りした職人気質・江戸っ子気質の人物で、忙しい母親に代わって正太郎をかわいがった。この時期、母は働きながら今井家の家計を支え、一時正太郎を預けたまま再婚をしたが、不縁となり、実家に戻った。この二度目の結婚によって、正太郎には異父弟が一人できた。小学校時代の正太郎は図画を好んで将来は鏑木清方の弟子となることを夢見る一方、チャンバラものの映画と少年向け小説を大いに好み、小遣い銭で買い食いを楽しんでいた。1935年、 西町小学校を卒業した。担任の教師は進学を勧めたが、家庭の事情により奉公に出た。親戚の伝手によって最初株式現物取引所田崎商店に出るが、半年あまりでペンキ屋に奉公を変わり、さらにそこも退いて株式仲買店松島商店に入った。以後、1942年に国民勤労訓練所に入所するまで、同店で過ごした。チップや小遣い銭を元手に内緒の相場に手を出し月給を上回る収入を得ていた。兜町時代の正太郎はこれを「軍資金」として読書、映画、観劇にはげみ、登山や旅行を楽しみ、剣術道場にも足を運ぶ一方、諸方を食べ歩き、吉原で遊蕩にふけるなどした。特にこの時期、読書・映画への興味が深まったことはもとより、歌舞伎・新国劇・新劇などの舞台を盛んに見物し、歌舞伎への理解を深めるために長唄を習うまでした。

1965年、『網走番外地』で「八人殺しの鬼寅」を演じ、同シリーズを通しての当たり役となる。寛寿郎が『網走番外地』の老侠客、「鬼寅親分」を当たり役としていたこの1960年代に、趣味の競艇に行ったところ、組関係者から丁重に挨拶され、「どうぞ。」とわざわざ貴賓室に案内された。寛寿郎は「鬼寅親分のおかげや。ファンなんだその連中、冬などはまことによろしい。ガラス張りであたたかい、毎度心地よう利用させてもろてます。」と喜んでいた。鬼寅は、ロケ地の網走刑務所でも見物していた囚人たちから「アラカン!頑張れ!」と声援が飛び、寛寿郎を感激させたほどの気の入った役であった。『直撃地獄拳 大逆転』、監督は『網走番外地』と同じ石井輝男)でも、ラストの網走刑務所のシーンの締めのためにわざわざ寛寿郎に鬼寅役で1シーン登場させるほど、当時の鬼寅役は知名度の高いものだった。

若山富三郎が清川虹子と結婚するという偽の招待状を送られた安岡力也のエピソード。力也は御祝儀をいくら出すか悩んで周囲に相談し、一般常識レベルの金額を出す事に決定。当日、出席者の山城新伍や松方弘樹ら御祝儀の金額が次々と読み上げられ、それらがすべて100万円といった桁違いに高い金額で、力也の前に名前を読み上げられた高岡健二の御祝儀の金額のあまりの低さに若山富三郎が驚愕し、彼が怒鳴り上げられて締め上げられる様を見せられて力也が震え上がるというネタがあった。この“どっきり”は力也も裏を知っている完全なヤラセと言われている。あるとき東映の若山の楽屋の隣から工事の音がし始めた。若山の取りまきが聞いてきた話では、高倉健が自分の楽屋が狭いため、拡張工事をしていると言う。 それを聞き激怒した若山は「そっちがそんな勝手するなら俺だって」と、音のする壁と反対側の壁を自ら叩き始め楽屋を広くしようとした。 若山に壁を叩かれた隣の部屋では大川橋蔵が弁当を食べていたが、びっくり仰天して飛び出してきた。 橋蔵が「いったい、何やってるんですか?」と尋ねると若山は「壁壊して部屋広くするんや」と。 それを聞いた橋蔵が呆れ気味に「それはいいですけど、僕の部屋はどうなるんですか?」と尋ねると、若山は正気に戻ったのか「あ、すんまへん」と謝った。 さらにそこに通りかかって話を聞いた鶴田浩二も激怒し、同じく自分の楽屋を広くするため壁を叩き始めたと言う。弟である勝新太郎とは容姿がそっくりであり、借金が得意で親分肌で取り巻きを大勢連れたがる所も良く似ていた。そのため、大映時代には、「二人も勝新太郎は要らない」「愚兄賢弟」などと、揶揄されるほどであった。しかし、大酒飲みで遅刻が多く台本をあまり読んでこない勝と違い、若山は酔っ払うこと無く、撮影前の準備を怠らない。後に東映でスターダムにのし上がり、NHKのドラマ『事件』では、人権派の菊池弁護士役を好演するなど、若山は名実ともに名優としての評価を高めた。勝の不祥事が目立つようになり、評価は逆転する。事実、勝は、「演出やプロデュースでは自分が上だが、演技力は、兄に敵わない」と最高の賛辞を送っている。 中尾彬曰く、「兄は努力家、弟は天才」。

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