作品一覧とTVドラマ

1919年、片岡松之助の一座に加入するが巡業先で賭博により追われ、初代中村扇雀一座の「関西青年歌舞伎」に加わる。ちなみに、のちの『続 網走番外地』での「鬼寅親分」のセリフには、「十五の年からいたずらをしてきた」というものがある。ここには、市川右一、片岡千恵蔵、林長丸など将来のライバルたちが所属していた。1921年、叔父・六代目嵐徳三郎の縁を頼って歌舞伎界に入る。初名嵐徳太郎。屋号は葉村屋。後に嵐和歌太夫を名乗る。

大阪市生まれ。本名・友一。早稲田大学仏文科卒。「都新聞」記者となり、1939年『文学者』に『残夢』を発表して作家生活に入る。風俗小説作家として活躍、戦後は雑誌『風雪』に参加したが、『絶壁』が、宇野千代・北原武夫夫妻をモデルとしていると言われ、抗議を受けた。1970年代には、忘れられた作家となっていた。短編「日本ロォレライ」などがある。300本以上の映画に出演した、戦前映画界の大衆のヒーロー。剣戟王・阪東妻三郎には三歩下がって道を空けていたものの、押しも押されもせぬ「時代劇」の大剣戟スターである。日本映画の巨匠の一人・山中貞雄に活躍の場所を与えた点でも記憶される。通称「アラカン」、「天狗のおじさん」。

天保14年八郎は清川関所役人の畑田安右衛門に師事し勉学に勤しむ。かなり優秀であったようである。弘化3年には後の天誅組総裁藤本鉄石と会い親交を深めた。弘化4年江戸に出て古学派の東条一堂に師事。才を認められ東条塾塾頭を命ぜられたが、固辞。安積艮斎に転塾。その傍ら、北辰一刀流の開祖千葉周作の玄武館で剣を磨き免許皆伝を得え、江戸幕府の学問所昌平黌に学んだ。その後、清河塾開設。安政2年3月から9月にかけて、母親を連れて、清川村を出発。善光寺、名古屋、伊勢、奈良、京都、近江、大阪、宮島、岩国、天橋立、鎌倉、江戸、日光などをめぐる大旅行をする。その記録『西遊草』は、幕末の旅行事情を知るうえでは貴重な資料である。内容は各国の名士との出会いなどを中心に書かれているが、清河の性格からか辛辣で手厳しい批評が多い。万延元年に起こった桜田門外の変に強い衝撃を受け、倒幕、尊王攘夷の思想が強まる。この事件を契機に、清河塾に憂国の士が集まりだす。

1988年10月に、TBSで放送された2時間ドラマ『妻たちの鹿鳴館』に出演した関係で、共演の池内淳子とともに同月8日の『クイズダービー』に出場したものの、若山は無理矢理出場させられていたのか最初から不機嫌であった。さっさとこの場から消えたいと思っていた若山は、最初の第1問目で「たけしくんにね、えぇー、『3000点』はダメなのかな?」と、いきなり持ち点3000点全部をこの回5枠ゲスト解答者だったビートたけしに賭けようとした。たけしが不正解になって0点になることを見込んだのだが、司会の大橋巨泉に「『3000点』はまずいですよ、無くなっちゃうじゃないですか!早く帰ろうと思ってるなぁ!!淳子ちゃん何とか言ってくださいよ...」と言われ、結局3000点を賭けることはできなかった。その後隣の池内淳子は苦笑しながら「あのぉー...1000点にさせて下さい...」と賭け点を変更したもののビートたけしは不正解、持ち点は2000点と減点された。なお、番組の歴史上で第1問で3000点全部を賭けようとしたギャンブラーは若山ととんねるずのみである。また作詞問題の第6問では、若山が歌う「男道」からの出題で、問題が読まれた直後に、「これ俺じゃないよ!だって覚えが無いもん!!」と困惑していた。巨泉には「オレですよぉー、だってレコードにそう書いてあるんですから!それは単に忘れちゃっただけですよ!!」と呆れながら言い返された。他にも5問目では、若山が1枠でビートたけしの実兄である北野大を指名、「ファンなんだよ」と言いながらも、その時持ち点が1500点しか無かった事もあって、賭けたのはたったの「200円!」だった。巨泉は「200『円』って!FANにしてはケチなんだよなぁ...」と思わず失笑。その後池内が500点に変更したが、結局北野大は不正解で1000点に減額、巨泉に「200円にしとけば良かったね」と苦笑される。その後も外しに外して、第7問終了時はわずか100点にまで減ってしまったが、最終問題では8倍表示だった4枠竹下景子に指名し、100点全部を賭けたところ竹下が正解したので、結果若山・池内ペアの賞金獲得額は900円だった。エンディングで池内は「でも偉いでしょ?ゼロじゃ無かった所が」と笑い、巨泉は「エライですよ!」と褒めていたが、その後巨泉は若山に対して「自分の唄った歌忘れないで下さいよ!」と言ったものの、若山はエンディングでも終始ご機嫌斜めの表情だった。

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