評伝・作品評論(文献の一部)と関連作品

1864年10月、旧知である藤堂平助の隊士募集の求めに応じ、伊東や篠原泰之進らと共に上洛する。のち、正式に新選組に加盟する。このころ、三木三郎と称す。目付を務めた後、1865年に九番隊組長。1868年3月、伊東らと共に新選組から分離し、御陵衛士に属す。三樹三郎や三木和泉と称する。同年11月、暗殺された伊東の遺体収容時、迎撃する新選組との乱闘を切り抜けて薩摩藩邸に保護される。鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩の中村半次郎の指揮下に入って新選組と戦い、後に東征軍の先鋒隊に合流する。のちに赤報隊の二番隊長を務めたが、相楽総三らの偽官軍事件に連座した疑惑によって入牢した後、新政府の徴兵七番隊に加わる。6月には軍務局軍曹を拝命して江戸へ下向し、戊辰戦争では北越や会津における戦線を戦った。1869年7月、弾正台少巡察。廃藩置県後、忠良と改名。伊那県や司法省、千葉県、山形県などにおいて、主に司法・警察関係に奉職し、1879年には鶴岡警察署長として行幸の指揮を執っている。1885年1月、福島県二等属を最後に退官した後は、茨城県石岡町にて余生を送った。

1950年、『鞍馬天狗 大江戸異変』公開。日本独立に伴い「チャンバラ禁止令」が解禁されるやいなやの見事な鞍馬天狗役への返り咲きだった。1951年、『鞍馬天狗・角兵衛獅子』で「杉作」役の美空ひばりと共演。松竹京都では、「鞍馬天狗」を3作演じた。

この説の根拠としては、元新選組幹部・永倉新八が晩年に口述した『新選組顛末記』や、新選組が屯所として利用した京都西本願寺の寺侍・西村兼文が残した『新撰組始末記』などが挙げられる。しかしながら現在、新選組犯行説には異論を唱える向きも多い。根拠とされる書物も、後に発見された永倉新八『浪士文久報国記事』では「内山暗殺事件」について触れておらず、また『顛末記』には永倉自身ないしはそれが連載されていた「小樽新聞」編集者によると見られる脚色のあとがあり、一方『始末記』の西村兼文は新選組に悪意を持っていたため、共に信憑性を欠くというわけである。 事実、当時の京都・大阪ではいわゆる「尊王攘夷・倒幕」の嵐が吹き荒れており、倒幕派志士による奉行所役人など幕吏の暗殺事件も多発していたことから、そうした志士による犯行説も捨て切れない。

1927年、十一代目片岡仁左衛門が、稽古のとき、「踊りが下手だ」と有望な若手俳優の顔面を真剣で殴打した。その場に居合わせた寛寿郎は、「いくら才能があっても門閥如何では出世できないのか」と衝撃を受け、映画界入りを決意したという。なお、その時の殴られた俳優はのちの片岡千恵蔵であった。1931年、アメリカの活劇俳優のダグラス・フェアバンクスが来日の折、滞在先の京都ホテルで寛寿郎は英語のスピーチをし、「わてが映画俳優として最初に英語で挨拶したんだす。」と後年まで自慢していた。なお、そのときの言葉は「ウェルカム・ダゴラス!」のみであった。1951年、鞍馬天狗の「杉作」役で共演した美空ひばりについて、「美空ひばりにはたまげた。まあいうたら子供の流行歌手ですよってな、多くは期待しませんでした。かわゆければよいと、ところがそんなもんやない。…男やない女の色気を出しよる。あの山田五十鈴に対抗しよる。」と感服し、女優としてのその才能を認めていた。

戻る