エッセイ・対談と明治以降

しかし、在地の仲買人たちが痛めつけられた結果、大坂を含め畿内一円での米価の価格は異常なまでに跳ね上がった。一部の特権階級のため莫大な資金を投入しての市場介入に公正な取引を監視する筈の与力たちが見て見ぬふりをする。天保8年、大塩平八郎の乱は、このような役人の態度を憎んだ大塩の暴発でもあった。この際に内山は美吉屋五郎兵衛方に潜伏していた大塩平八郎父子を発見、包囲した1人であると伝えられる。互いに地付きの与力である内山は大塩と近所であり知らない仲ではなかった。森鴎外が書き残した書『大塩平八郎』によれば、当時与力見習であった内山は大塩に憎まれていたとされている。大塩と内山との間に実際に確執があったのかどうかは不明だが、文政13年に大塩が内山に宛てた書簡が大阪府守口市盛泉寺に残されているとのこと。

万延元年、粕谷を含む37名は、薩摩藩に尊王攘夷の実行を訴えたことを問われ、水戸藩江戸屋敷に幽閉処分に処された。文久2年に放免され、翌文久3年、浪士組に参加する。同年3月、浪士組の江戸東帰が決まると、近藤勇、芹沢鴨らとともに京に残留したが、その後脱退し、郷里に戻った。元治元年、天狗党の乱に参加。上州での献金活動に奔走するが、栃木宿で幕府軍の追討を受け、下野国持宝寺で自害した。享年44。墓碑は生家に建てられている。

「戸部新十郎」名での初の作品「安見隠岐の罪状」が第70回直木賞候補となった。大きな歴史背景を交えた忍者物、剣豪物の作品が中心。出身である石川県と縁の深い前田利家ら加賀藩の藩主たちに関する著作も多い。祖先は戦国時代に今川義元に属した尾張笠寺城主の戸部新左衛門政直である。この「戸部新左衛門」という名は、尼子騒兵衛の漫画「落第忍者乱太郎」の登場人物「戸部新左衛門」の由来になっている。

1865年に江戸に出て、天野精一郎の道場で剣術を学んだ後、旗本の家臣となる。1867年に新選組に入隊し、1868年の鳥羽・伏見の戦いや甲陽鎮撫隊に参戦。その後会津へ出陣し、八月の母成峠の戦いで敗れた後、斎藤一らと会津に残留。10月、高崎藩兵士に降伏。東京護送後、1年の謹慎を経て放免となる。1929年、子母沢寛の取材を受け、回顧録「新選組聞書」を口述。

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