ドキュメントと新選組

1974年、睦五朗に招かれて東宝で『エスパイ』に出演。敵役のウルロフを怪演。特徴的な髪型は、若山の考案だった。また、クランクインの際、ひとつのセリフを様々な抑揚・表情でサンプルのように演じ分けてみせ、監督に選んでもらったという。白塗りの二枚目から悪役、豪放なアクション時代劇俳優へとアクの強い路線を歩んできた若山だが、70年代後半に大きな転機が訪れる。1977年公開の東宝映画『悪魔の手毬唄』の磯川警部役と1978年から放送されたNHKドラマ『事件』の菊池弁護士役は、ともに優しい人間味と哀愁を湛えた等身大の中年像であり、共に大評判となったことから一挙にイメージチェンジが浸透した。あまり賞に縁がなかった若山だが、この年『悪魔の手毬唄』と、『姿三四郎』の村井半助役で第20回ブルーリボン助演男優賞を受賞。1979年の『衝動殺人 息子よ』で、戦前からの大スター・高峰秀子と共演を果たし、キネマ旬報主演男優賞、ブルーリボン賞、毎日映画コンクール、日本アカデミー賞などの主演男優賞を受賞した。

1954年、新東宝にスカウトされ、演技経験のない新人としては破格の高給と運転手付きの車の送迎を約束させ入社。翌年、映画『忍術児雷也』で映画デビュー、『人形佐七捕物帖』シリーズなどの時代劇に主演。1958年、TV時代劇『銭形平次』に主演。新東宝の経営が苦しくなると1959年に東映に移籍し、同様に『人形佐七捕物帖』シリーズで主演し、脇役も多数こなした。1962年に弟が居る大映に移ってからは城健三朗と改名したが、主役は回ってこず、市川雷蔵や弟の勝新太郎の脇役に甘んじていた。仕事では不遇の日々であったが、1963年に美人女優の藤原礼子と結婚。また大映が売り出していた若手の主演スター安田道代を愛人にしていた。1964年にはTV時代劇『風雲児半次郎』に主演。 しかし大映時代の最後の1年は干されてしまい役がつかなかった。1966年に東映に戻り、芸名も元の若山富三郎に戻す。東映に復帰当初は脇役でスタートしたが、鶴田浩二を助演した『博奕打ち 総長賭博』で認められ、1968年より『極道』シリーズ、『賞金稼ぎ』シリーズ、『極悪坊主』シリーズ等のB面映画の主演シリーズを持つようになり、俳優としての地位を築く。

撃剣師範に就いていたが、表立った斬り合いの記録は少ない。屯所移転について西本願寺に交渉しに行ったり、三条制札事件の詫びを目的とした土佐藩の饗応に吉村が出席したりしているが、天満屋事件で三浦休太郎の護衛の任についていた時には、とくに吉村が斬り合った記録はない。どちらかといえば、論客として活躍したようである。慶応4年正月、鳥羽・伏見の戦いに参戦したが、戦死したのか、脱走したのか、以後の消息は途絶える。子母澤寛によれば、新選組が大阪を離れている事を知った吉村は路頭に迷い盛岡藩邸に帰藩を願うが、差配役の大野次郎右衛門に、武士にあるまじき行為と咎められ切腹を申し付けられ、盛岡藩邸の中で切腹して果てた。切腹した部屋には、二分金十枚と紙切れが置いてあり、紙切れには家族への送金を願う文が記してあった、という。但し、大野次郎右衛門なる人物は架空の人物であることがわかっており、吉村の最期は子母澤寛の創作である可能性が高い。子孫の嘉村家の過去帳には、明治三年一月十五日没、とあるという。

1989年、1月に昭和天皇が崩御し、平成と改元。正太郎も前年末から体調は芳しくなかったが、回復を待って『剣客商売 浮沈』、『仕掛人・藤枝梅安 梅安冬時雨』、『鬼平犯科帳 誘拐』の連載を開始した。5月には銀座和光で個展「池波正太郎絵筆の楽しみ展」が開催された。明けて1990年、二代目中村吉右衛門主演のテレビドラマ『鬼平犯科帳』が好評を博し、2月には同優主演の『狐火』が歌舞伎座で上演されるが、正太郎の体調は依然芳しくなかった。3月、急性白血病で三井記念病院に緊急入院、5月3日に同病院にて逝去。67歳であった。連載中の『仕掛人・藤枝梅安 梅安冬時雨』と『鬼平犯科帳 誘拐』は同年4月号分で未完中絶となった。5月6日、千日谷会堂にて葬儀及び告別式。山口瞳が弔辞を読んだ。法名戒名は「華文院釈正業」。浅草西光寺に葬られる。没後、勲三等瑞宝章受章。1998年11月、長野県上田市に「池波正太郎真田太平記館」が開館した。自衛隊に入隊、のちアパレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、『とられてたまるか!』でデビュー。悪漢小説ののち、『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員』で直木賞を受賞。時代小説やエッセイのほか、『蒼穹の昴』『中原の虹』などの中国歴史小説がある。映画化、テレビ化された作品も多い。日本の大衆小説の伝統を受け継ぐ代表的な小説家といえる。2008年現在、直木賞、吉川英治文学新人賞、山本周五郎賞選考委員。

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