ドキュメントと全集・選集

三船は海外からの出演オファーも数え切れないほど多く、晩年においても一年で通常の段ボール箱が一杯になるほど依頼が殺到していた。三船の出演を決断させる要素は「日本人を茶化さない」、「三船プロの運営に支障をきたさない」、「制作サイドの誠意ある交渉」等があり、それらの条件をクリアした相手に対しては「出演させていただきます」というような誠意をもって応えた。ただし『デルス・ウザーラ』に関しては本人が自費で海外に渡航しスケジュールを調整していたと野上照代に話している。晩年は米映画『シャドウ・オブ・ウルフ』のエスキモー族長役や『ピクチャー・ブライド』の日本人弁士役としても出演した。『シャドウ・オブ・ウルフ』で共演したドナルド・サザーランドは出演オファーを受けた際、三船が出演することが決まっていると聞き、脚本を読まずに出演を決めたと語っている。

1951年に『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、クロサワとともにミフネの名も世界に知れ渡った。1961年に初の海外作品『価値ある男』ではメキシコ人役で主演。その後の海外の名優との競演は、以下の作品などが挙げられる。アラン・ドロンは三船を『日本の兄』と尊敬し、自らがプロデュースするブランドの香水「サムライ SAMOURAI」の香りのイメージを、「三船敏郎を基調とした日本のサムライ」とした。また20世紀を代表する世界的な有名俳優であるマーロン・ブランドも飛行機に乗っていた際、三船が同乗している事を知るや自分から挨拶に行ったというエピソードがあり、三船が死去した時も弔電を送っている。黒澤のファンとしてその影響を受けたジョージ・ルーカスが監督を務めた『スター・ウォーズ』で、ダース・ベイダー役の申し出を断り、『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』にてダース・ヴェイダーの素顔、アナキン・スカイウォーカーの役をオファーされるが、これも辞退した。

万延元年に起こった桜田門外の変に強い衝撃を受け、倒幕、尊王攘夷の思想が強まる。この事件を契機に、清河塾に憂国の士が集まりだす。同年、八郎を盟主として虎尾の会結成。発起人は山岡鉄太郎他15名。横浜外国人居留地を焼き討ちし、尊王攘夷の精神を鼓舞し、倒幕の計画をたてたが、この密計が幕府の知るところとなる。しかも文久元年には八郎に罵詈雑言を浴びせてきた者を斬り捨てたため、幕府に追われる立場となっていた。八郎はこのような事情から京都に潜伏したり、東西諸国を遊説してまわり尊攘倒幕の内約をとりつけにまわった。

明治2年1月、箱館で土方歳三配下の新選組に入隊。箱館戦争における箱館総攻撃により、新政府軍上陸地寒川で戦死。享年30。1923年1月25日、東京市浅草区聖天町に生れる。父・富治郎は日本橋の錦糸問屋に勤める通い番頭、母・鈴は浅草の錺職今井教三の長女で、正太郎は長男であった。この年、関東大震災が起こり、両親とともに埼玉県浦和に引越し、6歳まで同地で過ごす。やがて、両親は東京に転居。正太郎は根岸小学校に入学する。商売の思わしくなかった富治郎は近親の出資によって下谷上根岸で撞球場を開業するも、両親不和のためこの年に離婚した。正太郎は母に引き取られて浅草永住町の祖父の家に移り、学校は下谷の西町小学校に転入した。祖父今井教三は御家人の家に養子入りした職人気質・江戸っ子気質の人物で、忙しい母親に代わって正太郎をかわいがった。この時期、母は働きながら今井家の家計を支え、一時正太郎を預けたまま再婚をしたが、不縁となり、実家に戻った。この二度目の結婚によって、正太郎には異父弟が一人できた。小学校時代の正太郎は図画を好んで将来は鏑木清方の弟子となることを夢見る一方、チャンバラものの映画と少年向け小説を大いに好み、小遣い銭で買い食いを楽しんでいた。

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