テレビアニメとその他のテレビ番組

断絶後は、兄三十郎と共に故郷を出奔する。公卿中山家の侍医・岩田肥後之丞文碩の食客となり、その娘スエを娶り、大坂南堀江町にて道場を開く。1863年頃、新選組に加盟する。池田屋事件では土方隊に属し、報奨金20両を賜る。同年12月の編成では二番組に属する。大坂でのぜんざい屋事件では、兄三十郎や阿部十郎らとともに大利鼎吉を討った。大坂にあって屯所隊長を務めたが、主に別行動をとることが多く、在籍は確認されるものの、兄三十郎の死後に離脱したものと思われる。維新後も大坂で道場を経営した。西南戦争では、大阪府知事渡辺昇の推薦で一時は抜刀隊の長に擬せられた。のちに道場経営に失敗し、商家の用心棒をしながら余生を過ごした。のち、妻スエと離婚して愛人吉村たみと同棲。

元俳優で映画プロデューサーの三船史郎は本妻との、タレントの三船美佳は内縁の妻との間にできた子供。中華民国・山東省青島で貿易商、写真業を営む三船徳造の長男として生まれる。父は秋田県鳥海町出身。若い頃からワルだったと言う。その後大連に移り住み、大連中学卒業後、甲種合格で兵役につく。写真の経験・知識があるということから満洲国・公主嶺の陸軍第七航空教育隊に配属され航空写真を扱う司令部偵察機の偵察員となる。後年もカメラに対するこだわりは深かったという。その後滋賀県八日市の「中部九八部隊・第八航空教育隊」に写真工手として配属され、1943年に同部隊に現役入隊した鷺巣富雄とは、その後生涯にわたる交友関係となった。鷺巣は三船の写真技術の高さを認め、円谷英二、大石郁雄と並んでの映画界の師と仰いでいる。

米国産コンピュータRPGの『ウィザードリィ』には、敵役サムライの首領的存在として「ミフネ」が登場してくる。また『マトリックス・リローデッド』『マトリックス・レボリューションズ』には「ミフネ船長」なる人物も登場し、アジア系ではないが容姿の良く似た俳優が起用されている。海外での受賞やノミネート歴は、1955年『七人の侍』で英国アカデミー賞主演男優賞ノミネート。1961年『用心棒』でヴェネチア映画祭主演男優賞、シネマヌーヴァ金額賞。1965年『赤ひげ』でヴェネチア映画祭主演男優賞、1980年『将軍』で米国エミー賞主演男優賞ノミネート。その他、フランスの芸術文化勲章、モントリオール世界映画祭特別グランプリ、マニラ映画祭では「最もセクシーな俳優」に選ばれた事もある。三船は海外からの出演オファーも数え切れないほど多く、晩年においても一年で通常の段ボール箱が一杯になるほど依頼が殺到していた。三船の出演を決断させる要素は「日本人を茶化さない」、「三船プロの運営に支障をきたさない」、「制作サイドの誠意ある交渉」等があり、それらの条件をクリアした相手に対しては「出演させていただきます」というような誠意をもって応えた。ただし『デルス・ウザーラ』に関しては本人が自費で海外に渡航しスケジュールを調整していたと野上照代に話している。

隊内きっての美男剣士という評判が伝えられている。水戸藩卒。現在の常陸大宮市御前山村野口平、粕谷忠兵衛の子として生まれる。安政5年、孝明天皇から密かに下賜された戊午の密勅の返還に反対し、家督を長男の親之助に譲り、脱藩した。万延元年、粕谷を含む37名は、薩摩藩に尊王攘夷の実行を訴えたことを問われ、水戸藩江戸屋敷に幽閉処分に処された。

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