テレビドラマと演じた俳優

三河国挙母藩出身。嘉永3年に脱藩し、知恩院一心寺に入寺する。その後、文久3年5月までに壬生浪士組に入隊していることが明らかになっており、6月の新選組結成時には副長助勤に就任している。池田屋事件では近藤勇隊に所属し、奥沢栄助や新田革左衛門と共に池田屋裏庭の防御に当たったが、逃亡を図る尊皇攘夷志士の猛攻を喰らい、深手を負う。その負傷がもとで、同年7月22日に逝去。墓は壬生寺と聞名寺にある。後に会津藩から別段金20両を賜った。文久三年頃に壬生浪士組に入隊し八月十八日の政変に参加。池田屋事件には不参加だった。 近藤勇に反発した永倉新八、原田左之助らとともに建白書を提出した。

元治元年9月26日の濃霧の朝4つ時、新選組屯所の1つとして使われていた前川邸の門前でぼんやりしていたところを近藤勇より命を受けた原田左之助に背後から斬りつけられ、そのまま水菜畑に逃れ倒れて死亡した。その光景を八木家次男・為三郎が目撃していたと言う。能吏であり経済官僚としての実績が大きいが、新撰組に暗殺されたと伝わる最期の為に評価のポイントがずれている。

自衛隊に入隊、のちアパレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、『とられてたまるか!』でデビュー。悪漢小説ののち、『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員』で直木賞を受賞。時代小説やエッセイのほか、『蒼穹の昴』『中原の虹』などの中国歴史小説がある。映画化、テレビ化された作品も多い。日本の大衆小説の伝統を受け継ぐ代表的な小説家といえる。2008年現在、直木賞、吉川英治文学新人賞、山本周五郎賞選考委員。1951年12月13日、東京都中野区鍋屋横丁の旧士族の家に生まれる。駒場東邦中学校、中央大学杉並高等学校を経て、自衛隊に入隊。この動機は、憧れていた三島由紀夫の自殺が原因である。この点について当初エッセイでは否定していたが、後に事実であると告白している。ちなみに、所属していたのは陸上自衛隊第32普通科連隊である。企業舎弟と呼ばれる暴力団の準構成員をしていたこともあり、ネズミ講などに関わっていたと浅田自身が認めている。また競馬で生活していた時期もあり、この方面に関するエッセイも多数ある。

9月に芹沢が思いのままにならない芸妓小寅に腹を立て遊郭の吉田屋に乗り込む騒ぎが起きた。永倉、斎藤、土方、平山が同行して主人を脅しつけ、小寅と付添の芸妓お鹿を断髪する辱めを与えた。この際に芹沢の命令で土方が小寅の、平山がお鹿の髪を切っている。その頃、会津藩から近藤、土方、山南らに芹沢の処理の密命が下っていた。芹沢の乱暴狼藉に対し朝廷から召捕りの命令が下ったことが理由である。9月16日、島原の角屋で宴会をした芹沢、平山、平間重助は夜中に屯所の八木家に帰った。平山は玄関で倒れて起き上がれないほど泥酔していた。八木家には各々の愛人が待っており、平山は桔梗屋の芸妓吉栄とかねてから馴染で、奥の十畳間で吉栄と同衾して寝入った。同じ部屋では屏風を置いて芹沢とその愛妾のお梅が寝ていた。

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